◎「それがし(某)」

「それがしり(其れが知り)」。「り」の脱落。「が」は主格の助詞。それが知っていること、の意。この表現が、名は忘れたり知らなかったりするがその人に関するなんらかの情報を覚えていたり知っていたり、ただ知っていたりする人を表現することに用いられた。後にはこの語が、やや権威的な、自称になったりもする。似たような表現で「なにがし(某)」もある。

「たちはき(帯刀)のをさ(長)それがしなどいふ人、使にて夜に入りてものしけり」(『蜻蛉日記』:帯刀(たちはき)の長(をさ)とかいう人)。

「その紙尋ね取りて三井寺に某(それがし)と云ふ僧にあつらへて書供養せさせて給べ」(『宇治拾遺物語』)。

「唯今殿(兼家)より御文もて、それがしなむ參りたりつる」(『蜻蛉日記』)。

「何を隠さう某(ソレガシ)こそ汝が兄主殿介ぢや」(『傾城江戸桜』:これは自称)。

 

◎「そろそろ」

この「そろ」は「しおろ(為粗)」。「し(為)」は動感進行を表現する。「おろ」は「おろおろ」(「あら(粗)」の母音変化)の「おろ」。その項参照。「ろ」に関しては「うろうろ」の項。「ろ」により表現される客観的に存在化した動態に空虚感があり、動感進行が(動態が)まばらになり抜けていることが表現される。それは、空間的・動量的にだけではなく、時間的・動質的にも空虚感があり、時間的構成変化に虚(うつ)ろ感がある。これが、効率よくことが進むことなく、注意深く進むような、柔らかくゆっくりとした動態にあることを表現する。

「虫(むし)や蛇(くちなは)などのそろそろと這ふ」(『名語記』)。

「『そろそろでかけましょうか』」。