「そふは(沿う端)」と「そふま(添う間)」がある。
◎「そふは(沿ふ端)→そば(側)」
・対象に関しては、その対象に同動するその対象の端(はし)。Aの(それ自体の)末端部分域。「御簾(みす)のそばいとあらはに引き上げられたるを」(『源氏物語』:御簾の末端部分を引き上げた)。
「そばそば」は物や事象の端のそのまた端や、端々(はしばし)。「その頃ほひ聞きしことのそばそば思出でらるるは…」(『源氏物語』:聞いたことの端々)。人と人の関係に関するそれ(後記)による「そばそば」もある。「なにとなくそばそばなるやうにてつねに対面などかたくて…」(『苔の衣』)。「そば(角)」(その項)による「そばそば」もある。「觚稜ト ソバソバナリ」(『類聚名義抄』)。
・人と人の関係に関しては、相手を、相手に対し正対しその認知界・認識界に相手を全的におさめるのではなく、その認知界・認識界に同動させつつその端(はし)へとおいやっていくような、その端へおくような、状態であることが「そば(側)」になる。「上下とて神事をそばになして、あるひは遅く上り、あるひは春日の御神事に外(はづ)る」(『申楽談儀』:神事を身の近くへ寄せるわけではない。正対せずに脇へおいやってしまう)。
・「そばそばし」(形シク)
態度・応接がそうした人と人の関係に関する「そば(側)」の印象であることが「そばそばし」。態度がよそよそしく、敵対的というほどではないが、あるていど、柔らかく、険悪。「常は少しそばそばしく心づきなき人の」(『源氏物語』)。「そば(角)」による、尖りゴツゴツした印象を表現する「そばそばし」もある。
・「そばめ(側め)」(動詞)
「そば(側)」の動詞化。何かに関し上記人と人の関係に関する「そば(側)」の意思動態になること。「目もあてられず、面をそばめて居たりけり」(『保元物語』:視界の端へおくような対応をする)。「兵共も大きにおそれ奉り、弓をひらめ、矢をそばめてとほし奉る」(『平治物語』)。「おやにふたつのあやまりあるべく候。かしらをふむ子をそはめ、わきの子を引たて…」(『結城氏新法度』)。
横を向いたり隅(すみ)へ寄ったりする自動表現「そばみ(側み)」もある。
「そふま(添う間)→そば(傍)」(後記)による「そばめ(傍め)」(他動)・「そばみ(傍み)」(自動)もある。
・「そばさま(側様)」
人と人の関係に関する「そば(側)」の場合、すなわち、相手に対し、これに正対せず、これを自分の認知界・認識界の端へおいやるような態度である場合、そうしている人は、視線を横へそらしたり(背けたり)、視線をそらし顔が横へ向く印象がある。そうした状態であることが「そばさま」。体勢に関しても言い、ものごとのとらえかたに関しても言う。
「喬様(そばさま)に臥(ふ)して、鼻の下に物をかひて、人を以て踏ますれば…」(『今昔物語』:顔を横へ向けうつぶせに伏して寝た。「喬様(そばさま)」の「喬」の字は、おごり高ぶる、といった意味もあるが、人をわきへ逐いやっているような態度はそうした印象ということ)。「童、顔を喬様(そばさま)に向て、『鼻たり(たれ)けり』と云て、鼻を高く簸(ひ)る」(『今昔物語』)。
「彌陀に帰して信心決定せしめたる分なくば……さればそばさまなるわろきこころえなり」(『蓮如御文章』)。
◎「そふま(添う間)→そば(傍)」
後者の「そふま(添ふ間)は、対象Aから離れるがごく近い部分影響域を意味する。同居している間(ま)、間(ま)はあるが同居している関係、にある。「簾(す)のもとに、何心(なにごころ)なく立ち給へるに、風の簾を吹きあげたる。立てたる几帳(キチャウ)の側(そば)より、傍顔(かたはらがほ)の透きて見え給へる様体(ヤウダイ)、顔いと花やかに…」(『宇津保物語』)。「そばヨウニン(側用人)」(将軍近くに仕えた江戸時代の職名)。「いつも彼のそばにいたい」。
辞書の項目にする場合、「そば(側)」と「そば(傍)」は別語であっても問題はありません。しかし、現在、ネットであれ紙であれ、辞書においては同語になっている。
つまり、「そば」には「そば(蕎麦)」、「そば(側)」、「そば(旁)」、「そば(角)」(8月6日)があるということ。現代の日常会話で用いられるのは「そば(蕎麦)」と(窓のそばなどの) 「そば(傍)」、「耳をそば(角)だて」といった慣用表現くらいのもの。たとえば「あいつはそばそばしい」など言っても了解はない。