◎「すまに」

「すむやに(済むやに)」。この語は「手(て)もすまに」という言い方がなされ、「手(て)」はそれによる動作、作業を意味する。作業が「すむ」とは、「仕事がすむ」のようなものであり、作業として完成し終了することを意味する→「すみ(澄み・済み)」の項。「や」は疑惑を表現し、「手(て)もすむやに→てもすまに」は、作業として完成したのか?これでいいのか?完全な作業はおこなわれているのか?やり残しや手落ちはないか?といった思いになりつつ、ということであり、心をこめて、丹念に、のような意味になる。

「戯奴 變(変)云 和気(わけ) がため我が手もすまに(手母須麻尓)春の野に抜ける茅花(つばな)ぞ食(を)して肥えませ」(万1460:「わけ(戯奴)」は一人称たる謙称ですが、(親しみゆえに)遠慮のない二人称にもなる)。

「手もすまに(手母須麻尓)植ゑし萩にやかへりては見れども飽かず心尽さむ」(万1633)。

 

◎「すまた」

「すみはた(済み「はた」)」。「すみ(済み)」はことが終了すること。「はた」は物と物を打ちあわせたりなにかを叩いたりすること、その音。「はたはた」と連音で表現されることが一般→「其石碑ニ墨ヲ塗テ其上ニ帛ヤ紙ヤナントヲ推アテゝシメシテハタハタト敲(たた)ケハ碑ノ墨カ紙帛ニツイテ字ノナイ處ハ黒テ文字ノ處ハ白ソ」(『史記抄』)。ことが済んで「はた」とはどういうことかというと、音楽が流れ、一定のリズムが流れ、皆がそれに酔い、手拍子なども打たれたりしているとき、皆の揃った手拍子が終わった瞬間ひとりだけ手を打つような状態になること。すなわち、拍子がはずれること。拍子が合わないこと。なにもはいていない素肌のままの股(また)を意味する「すまた(素股)」という語もある。俗語であろうが、内腿による性行為を「すまた(素股)」と言ったりもする。

「知らぬ謡にすまたの手拍子」(「浮世草子」『好色盛衰記』)。