「しうすやもみ(為失すやも見)」。「うす(失す)」は「うせ(失せ)」の終止形であり、「しうす(為失す)」は、為(し)て失(う)せる、動態を現し喪失する、ということ。「や」は疑問・疑惑を現し「も」は推想を表現する助詞であり、「み(見)」は動詞。この「み(見)」という動詞は、ただ視覚刺激にあることを表現するだけではなく、調べ、判断することも意味する(「(医者が)患者を診(み)る」)。すなわち、「しうすやもみ(為失すやも見)→すさみ(び)」は、動態を現し喪失するのではないかともみられる、ということです。なにが喪失するのかというと、その動態の主体です。たとえば「(花が)咲きすさび」と言った場合、花が咲き、その咲くという動態にその咲いている主体が喪失しなくなってしまうのではないかとふと思われる、そんな不安をふとおぼえる。存在それ自体が「咲く」という動態になり動態がなくなれば存在自体がなくなってしまうのではないかとふと思われる。それほど見事に咲いている。ということです。

主体の喪失はその動態が理性的統御(コントロール)を失うことを意味する。それは動態の虚無的な空虚な無意味化となり、それは世界の荒廃の不安を感じさせ、「すさみ」は疎(うと)ましさも表現するようになり、さらには荒廃を表現するようになる→「すさんだ心(すさみたる心)」。

意味は、前記のように、動態が統御(コントロール)のない状態になっていることを表現し、自動的な「風がすさび・すさみ」であろうと他動的な「琴をすさび・すさみ」であろうと、風が吹いたり琴を弾いたりすることが没頭し理性や反省など喪失してしまったように統御(コントロール)などないと思われる放縦な状態になっている。

語尾は「すさび」とも「すさみ」とも言う。表記の現れは「び」の方が古いようです。しかしそれは「すさび」が「すさみ」に変化したというものではなく、古代の方が、M音やH音などの、子音が、とくに、文字が珍しかった時代にそれを文字化する場合、明瞭であり、「もみ」の連音は濁音化し「び」に向かいやすかったということでしょう。それにより、具体的な、語の用いられる場面によって「~び」か「~み」かが使いわけられていったりもし、たとえば、風は「吹きすさぶ」、心は「すさむ」

この動詞は古くは上二段活用です。語尾「び」が乙類表記で現れる。これは「しうすやもみ(為失すやも見)→すさび」の「び」が「もみ」の二音の動態を一音で表現しており、これが保存され上二段活用になるということ(→「おとし(落とし)」の項・2020年10月21日)。その動詞も、動詞として成熟していくにつれ四段活用になっていく。

「すさべ」「すさめ」という下二段活用も現れている。これは「すさび」「すさみ」から発展したその客観的対象の自動表現もあれば、その他動表現もある。他動表現の場合、何かを統御(コントロール)のない動態にさせる、というこの表現は、何かを、心奪われ没頭しているような状態にさせること、と、その何かを、(上記のような)疎(うと)ましさを感じさせること、の、一見逆意と思われるような二系統の意味を表現する。

 

・(「すさび」)

「朝露に咲きすさび(酢左乾)たるつき草の…」(万2281:コントロールなく放縦に咲いている。「乾」は呉音、カン・ゲン、漢音、カン・ケンですが、「ひ(干)」を「乾」とも書くことから「ひ」や「び」と読む。表記は乙類ということになる)。

「『……』とのたまひすさぶるを…」(『源氏物語』:理性によるコントロールが感じられない状態で、言っているという意識さえないような状態で、言うと…)。

「箏(サウ)のこと(琴)いとなつかしくひきすさぶるつまおと、をかしくきこゆ」(『源氏物語』:これは「ひきすさぶつまおと」になっている写本もある。連体形に「る」が入っている場合は上二段活用)。

「乞食(コツジキの僧)を見ては、喜(よろこび)て多少を嫌(きらは)ず、怠(すさび)て物を施(ほどこす)べし」(『今昔物語』:この「怠(すさび)て」は異なった読みもある。「急(いそ)ぎて」という読みもあるが、それは意味が奇妙。むしろ、何も考えず、のような意の方が合う)。

「ある時はありのすさびに語らはで恋しきものと別れてぞ知る」(『古今和歌六帖』:生きているときはこの世にあることが意識もされず日々過ごし語りあうこともしないが、恋しいものと死別しそれがどういうことだったのか知る)。

・(「すさみ」)

「風すさむ小野の篠原妻こめて露分けぬるる小男鹿(さをしか)の声」(『新後撰和歌集』:風がコントロールを失ったように放縦に吹く)。「アメ(雨)susamu(スサム)」(『日葡辞書』)。

「然れども、王照君の心は更に不遊(すさまず)もや有けむ」(『今昔物語』:この部分、異なった読みもある。環境にコントロールのない状態になる、ということなのですが、何の問題もなく楽しく過ごすということ)。「はなに(花に)susamu(スサム)」(『日葡辞書』:花にコントロールを失ったような状態になる。心を奪われる)。

「Sonocoro xuxŏto mŏſuua,[f]Gotobanoinno vocoto gia: coreuo Mongacu ſuſamimaraxi,ninomiyauo curia…(その頃主上と申すは,後鳥羽の院の御事ぢゃ:これを文覚荒(すさ)みまらし…)」(『天草版平家物語』:疎遠で空虚な空しいものに、さらには疎ましいものに、した。これは他動表現になっている)。

「わが跡を慕はんと思ふ輩(ともがら)は、常に身をすさみ、色身の望みに任せず、其身のくるすを擔(にな)ひて…」(『ぎや・ど・ぺかどる』:身を空虚な空しいものにする。「ぎや・ど・ぺかどる(Guia do Pecador)」はポルトガル語で、罪人(つみびと)の導き、のような意ですが、書自体に「罪人を善に導くの儀也」とある)。

「くちずさみ」(口がすすむままになること)。

・(「すさべ」)

「ひまもなく ふりもすさへぬ さみたれ(五月雨)に つくま(筑摩)のぬま(沼)の みくさ(水草)なみよる(波寄る)」(『堀河百首』:五月雨がコントロールを失ったように放縦に降っている)。

・(「すさめ」)

「山たかみ人もすさめぬさくら花いたくなわびそ我れ見はやさむ」(『古今集』:人がその桜にコントロールを失った状態になるということですが、それに心を奪われたようになる。「すさめぬ」はその否定であり、そうはならない。その桜が咲いているところがあまりにも高く人がいかない。でもわびしい思いにはならないで。私は見る、と後半で言っている)。

「『…むべ、我をばすさめたり』と、けしき(気色)とり、怨じたまへりしか」(『源氏物語』:どうりで、私に冷淡にするはずだ、のような意。疎遠で空虚な空しいものにした)。