「しひいつたはまき(廃ひ稜威呆撒き)」。「いつ(稜威)」はその項参照。「たは(呆)」もその項参照。「しひいつたはまき(廃ひ稜威呆撒き)→しつたまき」は、「しひたいつ(廃ひた稜威)」すなわち、不活性化し無力化した「いつ(稜威)」(権威)、を呆(あき)れるほど(周囲に)撒き散らし、の意。どれほど偉そうにふるまっても、ふるまってはいるが、ということであり。これが「賎(いや)しき吾が身」や「数にもあらぬ」といった表現につながる。人とはそういうものだ、ということ。これは原文では「倭文手纏」と書きますが、これは慣用的な当て字でしょう。しかし、この表記の影響により、「しつたまき」は日常的な普段織りの「たまき(手纏)」(手に巻くもの)の意と解されるのが一般です。しかし「しつおり(倭文織):日常的な普段織り・10月31日」の「たまき(手纏)」(手に巻くもの)が上記のような意味を、「賎(いや)しい」や「数にもあらぬ」を、表現するとは思われません(その場合、それは、日常的な、普段のままであるとき人は「賎(いや)しく」「数にもあらぬ(とるにたらない)」ものだ、という意味になる)。
「しつたまき(倭文手纒)数にもあらぬ命もてななに(奈何)ここだく我が恋ひわたる」(万672:「ななに(奈何)」は、「~な」が禁止を表現し、「~な」「~な」に、ということであり、(そんな分不相応な恋はやめておけ、と繰り返し禁じても(恋いつづけてしまう)、ということでしょう。表記が「何」とも書かれるのは、「無(な)何(なに)」(それがなんなのか、どういうことなのかを思うこともなく) 、も表現されたということでしょう。この「奈何」は一般に「なにか」や「いかに」と読まれている。しかし、「奈何」をそう読むのは相当に困難でしょう)。
「しつたまき数にもあらぬ身にはあれど千年にもがと思ほゆるかも」(万903:これは「老いたる身に病(やまひ)を重ね」という人の歌)。
「…しつたまき いやしき我が故 ますらをの 争ふ見れば 生けりとも あふべくあれや…」(万1809)。