「ながら」は、「Aながら」は、Aと属性を同じくし、ということであり(→「ながら(助)」の項)、A・B双方が動態である「AながらB」(たとえば「笑いながら見る」)は動態B(見る)が(動態属性として)動態A(笑う)の柄(がら)であること、その「見る」は「笑う」という柄(がら)の見るであること、B(見る)の動態の関係属性がA(笑う)であること、を表現する。つまり、「しかしながらB」は動態Bは、動態として、「しかし」(上記の表現で言えば動態A)という柄(がら)になるわけですが、「しかし」は、なんの不審・不信・疑問もなく完全にその通りする、という意味になる(「しかし」に関しては「しか(然)」の項・9月3日)。その場合、たとえば「しかしながら生きる者」と言った場合、それは、「生きる」という動態が「しかし」という柄(がら)である者、(動態属性として)なんの疑問もなく完全な動態という柄(がら)で生きる者、生きるという動態の関係属性がなんの疑問もなく完全な動態である者、という意味になり、これは生きていると言いうるすべての者を意味する。
「普天(あめ)の下(した)の一切衆生(しかしながらいけるもの)皆(みな)解脱(やすらかなること)を蒙(かうぶ)らむ」(『日本書紀』)。
・「しかし・ながら・焼ける」の場合、「しかし」という柄(がら)で、「しかし」という関係属性で、なんの不審・不信・疑問もなく完全にその動態にあるという柄(がら)で、なんの不審・不信・疑問もなく完全にその動態にあるという関係属性で、焼ける。つまり、焼け、すべてが尽きる。
「夏五月廿三日、丁酉の午の時に,火發(おこ)りて總家(いへしかしながら)皆(みな)悉(ことごとく)に燒け滅ぶ」(『日本霊異記』)。
・ものごとを「しかしながら」で、「しかし・な・がら」で、あるべき想たる柄(がら)で、表現すれば、そのものごとの本質、その本質的意味、とはこうだ、と表現することになる。
「廿五代の今に當(あた)り、かかる神仙の出現し給ふる。これ併(しかしながら)わが王(わう)仁政のいたす所にして、万民の洪福(さいはひ)なり」(「読本」『椿説弓張月』:「併」の読み「しかしながら」は原文にあるもの)。
・あること(A)を言い、「しかしながら」と言い、あること(B)を言った場合(つまり文Aと文Bを「しかしながら」がつなぎ、「しかしながら」が文法上「接続詞」と言われるような場合)、接続詞「しかし」(その項・9月8日)のように、語の原意としては順接的表現も可能なのですが、事実上、その必要性はほとんどなく、「しかしながら」は逆接の接続詞と言われる状態になる。文Aで期待されることを裏切るようなことが文Bで言われる。
「年ノワカキ時ハ夜モ日モアケマイヤウニ主恩頻(しきり)ナレドモ、イツノマニヤラ、秋風立(たち)テ、ステハテラルルソ。是(これ)ハシカシナガラ、天子ハウラメシクナイソ(心の癒えがないような思いをいだくようなものではないぞ)。我ヨリモ勝(まさっ)タ美人アリテ、我(わが)寵ヲ奪(うばう)コソ恨ナレ。天子ニハ御トガモナイ…」(『中華若木抄』:寵愛が失せ、捨てられる。自分を捨てた天子を恨みそうだが、そうはならない)。
「身を擧(あ)げて而(シカシナ)がらも地に躄れて、悲び痛み心悶絶し」(『金光明最勝王経』平安初期点:「躄れ」は「たふれ(倒れ)」か。『類聚名義抄』の「躄」には「倒」や「アシナヘ」とある。躄(あしなへ)のように身が崩れることは身を挙(あ)げたことの期待を裏切る)。
「彼はそう言った。しかしながら。彼はまったくそうしていない」。