「しかし(然為)」。「しか(然)」(9月3日)、動詞「し(為)」(8月24日)はその項。全体の意味は、なんの疑問もなく、あるべきその「想」が動態として進行し、ということなのですが(→「しか(然)」の項)、この語は、語の原意としては、「彼は旅の準備をした。しかし。旅に出た」(旅の準備をした。旅の準備ということに何の疑問もない状態で。旅に出た)、という表現も、「彼は旅の準備をした。しかし。旅に出なかった」(旅の準備をした。旅の準備ということに何の疑問もない状態で。旅に出なかった)、という表現も、どちらも可能です。前者が順接、後者が逆接です。「しかし」が順接の接続詞と言われるか逆接の接続詞と言われるかはその文で言われていることの内容で決まる。「春になった。しかし。梅が咲いた」は順接。「春になった。しかし。梅が咲かない」は逆接。その場合、「しかし」は逆接の接続詞と言われるわけですが、それは、言語生活の実態において、「彼は旅の準備をした。しかし。旅に出た」や「春になった。しかし。梅が咲いた」という表現は必要性がほとんどなく、不用であり、そういう表現はしないからなのです。その一方、なんの疑いもなく理想的なある動態がありながらそれによって期待されることが起こらないことは、自分にも記憶の(つまり文記録の)必要要請が生じ、言語化し他にも伝えようという表現動因も起こる。それにより、「彼は旅の準備をした。しかし。旅に出なかった」や「春になった。しかし。梅が咲かない」といった、逆接的な用い方が「しかし」の一般的な用い方になり、国語学者・文法学者が「しかし」を逆接の接続詞として分類する状態になる。

この語の生まれ方としては、おそらく、逆接の接続詞のように用いられる「しかしながら」の影響があり、それを下略して言うその俗用として生まれているのでしょう。

「此里に又なきといふ太夫を見るまでもなし取寄よといふ。しかしお慰にもと此夕ざれの出掛姿はしゐ(端居)して見せまいらすに…」(「浮世草子」『好色一代女』)。

「『ハァ成程さうおつしやれば聞(きこ)えましたが、然(しか)しそれはおめへさまの方(ほう)の得手勝手(えてかつて)、たとひこの身は三枚におろされ…』」(『東海道中膝栗毛』)。

「天気予報では今日は晴れると言っていた。しかし、朝起きたらひどい雨だった」。