「しいか(為射「か」)」。語頭の「し(為)」は、「しとめ(仕留め)」、「しかけ(仕掛け)」、「したて(仕立て)」、「しくみ(仕組み)」その他の語頭にある、ある動態が意思的・故意的であることを表現するそれ(→8月24日・「し(為)」の項)。「い(射)」は、いうまでもなく、矢を射(い)る、のそれ。語尾の「か」は、「~か?」と疑問を表現する「か」であり、また、「かれ(彼れ)」「かなた(彼方)」などにある「か」のように、具体性なく、遠い憧れや夢のような想を表現するそれ。その疑問たる「か」と理想のような「か」を射(い)るとは、疑問や不信を射殺し、遠い憧れや夢のような想を射あて、得る、ということ。それがなされること、なされた結果、が「しいか(為射「か」)→しか」。どういうことかと言うと、なんの疑問・不審・不信もなく理想たる、完全なものごとを得た状態になり、ということであり、なんの不審・不信・疑問もなく完全にその通り、という意味になる。たとえば「しかなること(しかにあること)」は、なんの不審・不信・疑問もなく完全にその通りにあること、という意味になる。「しかに」は、なんの不審・不信・疑問もなく完全にその通りに、であり、「しかと~す」は、不審・不信・疑問もなく完全なるその動態で~する。「しかし」は、なんの不審・不信・疑問もなく完全にその通りする(「しかし」は文と文がそれによってつながれ接続詞にもなりますが、ここで言っている「しかし」はそういう用いられ方のものではなく、全体が動詞のように用いられている「しかし」)。「しかあり」は不信・疑問のないなんらかの「か(彼)」たる想がある(それがあることの表明が「しかあり→しかり」)。
「香具山(かぐやま)は 畝傍(うねび)ををしと 耳梨(みみなし)と 相争ひき 神代より かくにあるらし 古(いにしへ)も しかに(然爾)あれこそ うつせみも 妻を争ふらしき」(万13:第二句「雄男志(ををし)」は、「男男(をを)し:いかにも男らしい」ではなく、「~を惜(を)し」でもなく、「男惜(をを)し」であり、男が惜しい、男であることが失われることが惜しまれる、ということでしょう。畝傍(うねび)がそのようにして耳梨(みみなし)と争い、香具山(かぐやま)は女、ということです。「しかに(然爾)あれこそ」は、(古も)まさにたしかにそのようにあればこそ。これは「しかに」。「うつせみ」は、いま自分がその絶え間ない流れにいるその現実。ちなみに、「あるらし」は、後世の、~らしい、ではありません。そうあることの感嘆表明(→「らし(助動)」の項))。
「あをによし奈良にある妹が高高(たかたか)に待つらむ心しかに(之可爾)はあらじか」(万4107:これも「しかに」。「じ」に関して「じ(助動)」の項・8月30日)。
「…後の世の 聞き継ぐ人も いや遠に しのひにせよと 黄楊小櫛(つげをぐし) しか(之賀)刺しけらし 生ひてなびけり」(万4211:これは、(黄楊小櫛(つげをぐし)を)為(し)射(い)「か」刺し→何の疑問不信・不審もなく「想」たるあるべきことを得て刺し、という表現になりますが、それによりこの處女塚に眠る人の思いをあますところなくありありと伝えている、ということ。ここで「黄楊小櫛(つげをぐし)」と言っていますが、塚に木が植えられ、それが柘植(つげ)の木なのでしょう。この塚の木に関しては「万1811」に「墓(つか)の上(うへ)の木の枝なびけり」という表現がある)。
「しかと(志可登)あらぬ 髭(ひげ)かきなでて 吾(あ)れをおきて 人はあらじと 誇(ほこ)ろへど…」(万892:疑問なく「髭(ひげ)」と言いうる状態であるわけではない髭)。
「獲む所の善根をば、先づ勝福を以て、汝等及諸(もろもろ)の眷屬に施與すべし、しかせば彼の人王は大福徳有らむ」(『金光明最勝王経』巻六「四天王護國品第十二」・平安初期点:疑問なく、そういうことだ、と言いうる状態でそうすれば。これは「しか」に動詞「し」のついた「しかし」の動詞が未然形「せ」になり「ば」がついている)。
「…人皆か 我のみやしかる(之可流) わくらばに 人とはあるを 人並(ひとなみ)に 我れも作(な)れるを…」(万892:この「しかる」は「しかある」の「あ」が(少なくとも記述では)なくなっている。「わくらばに」は、なんの分別もなく、たまたま、の意。この語は「病葉」とも書かれる「わくらば」とは関係がない。人はすべてそうなのか。私だけか、現実として疑いもなくこんな状態にあるのは。たまたま人とあるが。ほかの人と同じように私の身もなってはいるが…)。
「『……生(う)むこと奈何(いか)に』 訓生云宇牟(生を訓みて うむ と云う) 下效此(下は此(これ)に效(なら)へ) とのりたまへば、伊邪那美命(いざなみのみこと)『然(しか)善(よ)けむ』と答へたまひき」(『古事記』:何の疑問・不審・不審もなくあるべきあり方として、たしかに、よい)。
「『『幼き人まどはしたり』と、中将の愁へしは、さる人や』と問ひたまふ。『しか。 一昨年の春ぞ、ものしたまへりし。 女にて、いとらうたげになむ』と語る」(『源氏物語』:「しか」に続く「さる人」は省略されている。それにより、「しか」が後世で言う返事の「そうです」の「そう」と同じような役割を果たす) 。
「此の人、心に必らす然(しか)あらむと知りて竊かに孔道を開きて城の外に出て穴にをり」(『大唐西域記』平安中期点:此の人は、心に、必ず、疑い・不信のない想たる内容があることだろう、と知り…)。