「副助詞」と言われる助詞の「し」。「大和しうるはし」などのそれ。「しひ(強ひ)」。「ひ」は無音化した。「しひ(強ひ)」という動詞はなにものかの意思に無条件で従うこと、そうせざるを得ないこと、を表現しますが、その「なにものか」が宇宙のおおいなる意思、自然のおおいなる意思、のようなものであることがこの「しひ→し」。宇宙のおおいなる意思、自然のおおいなる意思、運命、必然、としてそうだという表現がある。「赤玉(あかだま)は緒(を)さへ光れど白玉の君が装(よそひ)し貴(たふと)くありけり」(これは『古事記』における、神の世のような世界を離れる際の歌(歌謡8)。この歌の後、歴史は世俗的な神武天皇の世に入る(神話を知らない人には漠然と誤解があるかもしれませんが、最初の天皇と言われる神武天皇が天孫降臨するわけではありません。神武天皇はその何代めか後の人)。「あかだま」は(そして「きみ(君)」も)自分が生んだ赤ん坊を意味する。それを俗世たるこの世に残して母たる「豊玉姫命」は去って行く)。この歌にある「し」はその原意そのものです。「貴(たふと)くありけり」はその「宇宙のおおいなる意思、自然のおおいなる意思」をただ伝達している。「大和は国のまほらば青垣山こもれる大和しうるはし」(これは『古事記』にある日本建命(やまとたけるのみこと)の歌(歌謡31))。この歌にある「し」も原意です。これらにある「し」は宇宙のおおいなる意思としてそうだ、それが自然のおおいなる意思だ、という表現です。その大いなる意思を歌はただ伝達したのです。この「し」が、時代が下るにつれその用いられ方が通俗化していく。世の中の意思として、避けられない事の成行きとして、運命・必然として、のような意味になる。「わが背子は物な思ほし事しあらば火にも水にも吾(われ)なけなくに」(万506:避けられない運命的な世の中の成行きとして、運命・必然として、なにか事があるなら)。「そこし恨(うら)めし」(万16:運命的・必然的に、どうしようもなく、うらめしい)。「君し踏みてば」(万3400:運命的・必然的に踏むなら。もしそんな運命があるなら)。「雪のくだけ(破片)しそこに散りけむ」(万104:運命的に、必然的に、自然の流れとして当然そこに)。「来むとし待たば」(万489:運命的・必然的に(それが当然のことと)、来るだろうと待つ)。「独りし思へば」(万4292:運命的・必然的に(他にどうしようもなく)、孤独で)。「名にし負はば」(『伊勢物語』運命的・必然的に負っているなら)。「己(おのれ)し酒をくらひつれば」(『土佐日記』:運命的・必然的に、本能的に、動物のように、酒をくらったので)。「誰しも」(運命的・必然的にある誰でも)。「今しも」(運命的・必然的にも)。

この「し」は何かを指し示すことによる指示による強調ではありません(一般にはそう言われる)。たとえば上記「赤玉は…」の歌が、装いそれが貴い、という表現がなされていることはあり得ない。語調を整えるとも言われますが、そうした掛け声のようなものであることはなおさら有り得ない。

この「し」は文法的には「副助詞」と言われる。