◎「し(死)」

現代では死は多くの人々の関心をひく重要な問題になっている。それに関し考察する人も多数いる。そして「し」は動詞「しに(死に)」の語頭にある。しかし、通常、動詞の語幹(活用部分を除いた残部)が独立名詞化し「現代の死(し)を考える」などというセミナーが開かれるようなことは起こらない。たとえば、「いき(生き)」の「い」が名詞化し、「現代の生(い)を考える」というセミナーが開かれるような事態です。では、「しに(死に)」という動詞が現れる前に名詞「し(死)」があり、それが動詞化したのかというと、そうした痕跡もない。では、死ではなぜそれが起こったのか。それは、漢字「死」の音(オン)が「シ」であることによるものでしょう。すなわち、「し(死)」の語源は「死」の音(オン)。「死(シ)」と「しに(死に)」は語源は別。「死(シ)」は中国語であり、日本語ではない。日本語に「死(し)」は無い。「しに(死に)」はある。しかし「し(死)」はない。起源的に「死(し)」は日本語ではない。「し(死)」は外来語です。上記のセミナーは「シ(死)」について考えているのであって、「しに(死に)」や「しぬ(死ぬ)」の「し」を考えているわけではない。古代以来、日本では「し(死)」が抽象名詞化し、思考対象になり、その思考や議論により「し(死)」への理解がすすみ、死が分かり、という事態は起こっていない。「しぬ(死ぬ)」を考えるとは死ぬことなのです。世の中には自殺もありますが、そういう人に対し言えることは、もう死んでるんだから安心しなさいということか。ちなみに、『古事記』歌謡3に「命(いのち)はなしせ(那志勢)給ひそ」(「な」は否定)という表現がありますが、この「しせ(志勢)」は「しり(領り)」の「し」によるものであり、支配することを意味し、全体の意味は、命を支配し思うままにするようなことはなさらないでください、ということです(つまり、死せ、ではなく、全体は、殺さないで、という意味ではない(これに関しては下記「しせ」の項)。

 

◎「しせ」(動)

「しせ(領せ)」。「し」は「しり(領り)」のそれであり、動態進行・動態浸透を表現し、影響を及ぼし影響下におくことを表現する。活用語尾の「せ」は、「より(寄り)」(自動)・「よせ(寄)」(他動)、の「せ」にも働きが似ているものであり、この「しせ(領せ)」は「しり(領り)」の他動表現であり、それも使役型他動表現であり、それも、支配することをさせる、という意味の使役ではなく、「し」で表現される、影響を受けることをさせる、という意味の使役型他動表現であり、影響を受けることをさせる、とは、影響の主体として表現すれば、支配する、ということです。Aを「し(領)」の動態進行・動態浸透状態にさせる。その浸透的影響下におく。

『古事記』歌謡3にある「命はなしせ(那志勢)給ひそ」は、命を支配し我がものとするようなことはなさらないでください、ということ。

『古事記』歌謡23にある「己(おの)が緒(を)を盗(ぬす)みしせむと(斯勢牟登)」も、盗み我がものにしようと、ということ(『古事記』歌謡23と同じような歌が『日本書紀』歌謡18にある(そこでの表記は「志齊」))。

『日本書紀』崇峻天皇五年十月に「蘇我馬子宿禰(そがのうまこのすくね)、天皇(すめらみこと)の詔(みことのり)したまふ所を聞きて……天皇(すめらみこと)を弑(し)せまつらむと謀(はか)る」と読まれる部分がありますが、この「弑(し)せ」も支配することを意味し、それにより、間接的に、命を奪うことを表現し(※)、それを「~まつり」で謙譲表現している。つまり、支配させていただく→殺す、ということ。※ 「弑(シ)」の字は、(とりわけ、臣が君を)殺すこと。これは、「殺」とも書く、とも言われる字。

この『古事記』歌謡3その他にある「しせ(志勢・斯勢・志齊)」という語は、一般に、死なせる、殺す、の意と解されている。つまり、そういう動詞があるとされ、それは「しに(死に)」の他動表現だと言われている。これは、「いに(去に)」の他動表現に「いせ」が現れるようなものであり、ありえない。漢語「弑(シイ):意味は、殺すこと」に動詞「し(為)」のついた「シイし(弑為)→しし(終止形、しす)」という表現は、後世、ある。