「じやれ(「じ」破れ)」。「じ」は、「言はじ」(言はない)や「『え、出でおはせじ(出てはいけない)。とどまり給へ』」(『宇治拾遺物語』)などのように、否定や禁止を表現する助動詞の「じ」(活用はない)。「やれ(破れ)」は崩れ、分散的に分離すること。「じやれ(「じ」破れ)→ざれ」、すなわち、否定や禁止を表現する「じ」が崩れ、分散的に分離する、とは、「じ」が崩れ、役に立たなくなることであり、否定や禁止が役に立たなくなることを意味する。これが、日常生活において普通・平凡にそれによっている日常的な生活規範、それによって何らかの意味性や価値性が守られている日常的な生活規範、意識もされずに、生活において否定や禁止が働いている規範、それが崩れ、分散的に分離し、無効になることを意味する。殺人その他、許すべからざる社会的あるいは国家的規範侵害が起こるわけではない。庶民が日常生活において意識もせずにそれによっている生活規範が崩れる。それが「ざれ(戯れ)」。たとえば、法事において、皆が正座し神妙に読経を聞くなか、ひとりだけ木魚にあわせて踊りだす。それにより法事の生活規範は侵害され破壊される。

この語は「(犬などが)じゃれ」になりますが、「ざれ」とは書かれても「じゃれ」のような音(オン)は古くからあるのでしょう。この「ざれ」という語が生まれたのは鎌倉時代ころかもしれません。

「『しかるべき所などにて、無心なる女房などの歌詠みかけたる、無術(じゅつなき)事(こと)おほかり。………又、なま宮づかへ人にもあれ、さるべきざれたる女などの、そへごととなづけて、聞くにもしらぬ歌の一両句などをいひかくる事あり。…………それもざれたるたはふれに言ひなせるさまにもなりぬべきなり』「」(『無名抄』)。

「『ざれ繪と云は、或は兒(ちご)・若衆かなどを、ざつと書たこそはざれ画なれ』」(「狂言」『すゑひろがり』:これは、真面目に、真剣になど書かれていない絵、といったような意)。

「若君はいとうつくしうて、され走りおはしたり」(『源氏物語』「須磨」:この「され」は、一般に、ここで言っている「ざれ(戯れ)」と言われ、『源氏物語』の「現代語訳」なるもので、この部分は「ふざけながら走って来た」や「はしゃいで走っていらっしゃった」などと表現されていますが、そうでしょうか。この「され」は「され(曝れ・洒落れ)」(その項)であり、まったくの赤ん坊たる幼児だった子が人らしく成長したことを言っているのでしょう)。

「チツトモ狂シツ(狂疾)ナントノ妓女ナントニジヤルル様ナル事ハ無(ない)ソ」(『湖鏡集』:これは「じゃれ」)。

「Iare(ジァレ), uru(ルル), eta(レタ). Zombar. Melius(より良い), Zare(ザレ), uru(ルル).」(『日葡辞書』:「Zombar」は、わるふざけ、からかい、のような意味でしょう(「ジァ」が「Ia」と書かれるのは『日葡辞書』で「イ」が「j」と書かれることもあるのとなにか関係があるのであろうか。アルファベット表記はJ音とY音は混乱する。「I」と「J」はもともとは区別のない文字です。ちなみに、「英語:Japan ジャペーン」、「スペイン語:Japón ハポン」、「ドイツ語:Japan ヤーパン」。すべて「J」))。