「さり(舎利)」の(自動表現)動詞化。「さり(舎利)」は身体、さらには遺骨や遺体、を意味するサンスクリット語の音写であり、日本では仏陀の遺骨を意味する。「しゃり」とも言い、この方が音は一般的ですが、この語は「舎利」という漢字で音が表現されるサンスクリット語であり、日本で言われる「しゃり」「さり」「ざり」といった音に安定性はないでしょう。その「さり」が、「わり(割り)」のように、他動の動詞のように作用し「され」が自動表現の動詞になる。意味の基本は、骨になること。しかしそれは、生臭い死体の骨のようなものではない。生臭みのない、清潔な、骨であり、仏陀の骨であり、臭みのある俗飾などない、簡素で完結し、中枢的価値だけが残りそこにあるような骨です。しかもこの「しゃり」は宝物(ほうもつ)のように扱われ、美しい。

この「され」が、もはや古色あると言っていいような、乾ききり生体の生臭さなどなくなった骨や骨のようになること(→「されがひ(曝れ貝)」「されかうべ・しゃれかうべ(髑髏)」)、あるいは、人が簡素で完結で美しくもある状態になること(たとえば少女が成長しそうなったりする)、を表現する。

さらに、この「され」が俗化したような「しゃれ」が、江戸時代には、庶民的な、風俗的美的動態を表現する語になる。では、その場合、「しゃれている」とはどういう状態なのかといえば、原意として生臭みが抜け、乾いている→社会的人間関係的臭みがなく、そうしたこだわりがなく、爽快感がある、俗飾の抜けた美しさがある→清新な気が感じられる、といった状態になる。装いの努力にそれが現れればそれは「おしゃれ」にもなっていく。言語表現においてそれが現れればその表現は「しゃれている」わけですが、意味連絡に美しさも深さもなくただ同音をならべ、たとえば「貝(かひ)をかひがひしく掘る」などと言えば、それは「だじゃれ(駄洒落):「洒落」は当て字」と言われる。

「あか(吾が)佛のゆかりには ほね(骨) さり(舎利) の中よりもあまき乳ふさは出きなん」(『宇津保物語』)。

「元年春正月…、佛の舍利を以(も)て法興寺(ほふこうじ)の刹(セツ)の柱(はしら)の礎(つみし)の中(なか)に置(お)く」(『日本書紀』:「刹(セツ)」は仏塔の中心の柱。この「舍利」の読みは、しゃり、でしょう)。

「かねてより思へば悲し陸奥(みちのく)の蓼生(たでふ)に骨のされんとすらん」(『散木奇歌集』)。

「『これなむ、橘の小島』と申して、御舟しばしさしとどめたるを見たまへば、大きやかなる岩のさまして、されたる常磐木の蔭茂れり。『かれ見たまへ。いとはかなけれど、千年も経べき緑の深さを』とのたまひて…」(『源氏物語』)。

「(姫は)年のほどよりは、されてやありけむ、(若君からの文を)をかしと見けり」(『源氏物語』)。

「(袿(うちき)を)強ひて取らすれば、歩み避(さ)りて、お前の村薄(むらすすき)の上に(袿(うちき)を)うち懸けて走り出でぬ。『いとされて、くち惜(をし)き童(わらは)かな』と言ふ」(『宇津保物語』)。

「うつくしきもの ……………かりのこ。さりのつぼ(舎利の壺)。なでしこのはな」(『(春曙抄本)枕草子』巻八)。

「しやれたる――人の気の、物になれていさぎよきを、骸骨や朽木などの雨露にさらされて、しやれたる貌にたとへたる詞也」(『色道大鏡』(1688年頃):つまり、こだわりがなく、爽快感がある)。

「かたはらいたき物……………たひたちたるところなとにて(旅立ちたる所などにて) けすともの(下衆どもの) おのかとちされたはふるるをみるここち(己がどちされたはぶるるを見る心地)」(『枕草子』:これは最後に「阿波國文庫」という赤い蔵書印のある、現在国立国会図書所蔵のそれの当該部分をうつしてみた(原文には一部、変体仮名もある。『枕草子』にはさまざまなものがある)。この「され」は一般に「ざれ(戯れ)」(ふざけ)と言われているわけですが、そうでしょうか。これは旅に出た「けすとも」が旅先でみんなお互い同士、よそ行きの、とりすましたばかげた状態になっている、ということでしょう。つまり、「ざれ(戯れ)」ではなく、この項で言っている「され(曝れ・洒落れ)」だということ)。