◎「さる(猿)」

「さあれいひ(『さ有れ…』言ひ)」。「れいひ」が「る」の音になっている。「あれ(有れ)」は動詞「あり(有り)」の已然形。「さ」は情況的になにかを指し示し、『さあれ(さ有れ)…』は、そのようにあるが…、や、あのようにあるが…、のような意味になる。「さあれいひ(『さ有れ…』言ひ)→さる」とは、『そのようにあるが…』と言っている(ような)もの、ということ。人を観(み)、さのようであるが…(それでいいのか?)、と(人に)言っているようなもの(そのようにこちらを見るもの)、ということです。これは動物の一種の名ですが、形態や動態が人に似ている。「まし」「ましら」(「ら」は複数)とも言う。日本の神話では「天孫降臨」の際、神格化した猿が神の世界から人の世界への先導をしている(正確に言うと「さもらひ(侍ひ)」をしている)。

「あな醜(みにく)賢(さか)しらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似む」(万344)。

「猨 ………亦作猿 和名佐流」(『和名類聚鈔』)。

 

◎「さるた(神名)」

「さるゆふた(猿ゆ二)」。「ゆ」は助詞。猿により二重の、二種の、印象が生じているもの、の意。猿と人の中間のもの。人と獣(けもの)の中間のもの。これは神格化しており、この神が天孫降臨を先導しその道案内のような働きをすることは「天孫降臨」が人でもあり獣(けもの)でもあるようなものが人になっていく過程の始まりであることを象徴している(※)。正式には「さるたひこのおほかみ(猿田毘古大神)」という。

「僕(あ)は國(くに)つ神(かみ)、名(な)は猨田毘古神(さるたびこのかみ)なり。出(い)で居(を)る所以(ゆゑ)は、天(あま)つ神(かみ)の御子(みこ)天(あま)降(くだ)り坐(ま)すと聞(き)きつる故(ゆゑ)に、御前(みさき)に仕(つか)へ奉(まつ)らむとして、參(まゐ)向(むか)へ侍(さもら)ふぞ」(『古事記』)。

 

※ 日本の神話における始まりから「島生み」までにおいては宇宙の創造、あらゆる存在の創造過程が存在たる認識の形成過程として表現されそれが神の世のこととなる。「宇宙」や「あらゆる存在」とは客観世界であり、それは客観世界が「あり(在り)」になる認識の形成過程です(客観世界が「あり(在り)」になる認識の形成過程とは宇宙の創造過程、あらゆる存在の創造過程です)。そして「しま(島)」が生まれ、光(おほひるめのむち)が降臨し時間(すめろき:天皇)の降臨と即位によりそれは保障される。日本の神話の全体像は簡単にまとめればそういうものです。