「さりあらむみおひ(舎利有らむ見負ひ)」。「さり(舎利)」が有るのではないかという見た目になっている、の意味。「さり(舎利)」は、仏陀の遺骨を意味する「さり(舎利)」ですが、この表現が、骨になっている→痩せている、の、見下し馬鹿にしているわけではない表現になる。なぜ馬鹿にしているわけではないのかというと、痩せて骨だけになるような事態は死へ向かっているような事態なわけですが、舎利になることは尊く美しいことだから。

同じような語で「さらばひ」がある。これは「さりあらむみはひ(舎利有らむ見這ひ)」。「はひ(這ひ)」はそういう動態情況が現れること。表現の視点が異なるだけで、意味は変わりません。「さらばへ」もある。これは語尾が「~はへ(延へ)」、と、「はひ(這ひ)」の他動表現になっている。21世紀の現代では「老いさらばへ」といった言い方がもっとも一般的でしょう。

「大納言示云、見付物骨、似人骨…………是旧骨(是(こ)れ旧骨(ふるきほね))さらほひなとしたるにや侍らむ」(『小右記(セウイウキ)』長和五(1016)年六月十九日:これは,旧(ふる)い骨が「さり(舎利)」のようになりでもしたのか?、と言っている)。

「痩せたまへること、いとほしげにさらぼひて、 肩のほどなどは、いたげなるまで衣の上まで見ゆ」(『源氏物語』:「いとほし」という語には、厭(いと)ふような思いになること、と、胸が痛むような思いになること、の二つの系統がありますが、これは(誰もが)胸が痛むような思いになることでしょう)。

「聖(ひじり)は……物清げにさらぼひて賤しからず」(『浜松中納言物語』)。

「SARABAI,―AU  サラバフ i.v.   Emaciated(やせ衰えた), to become lean(やせる) : yase-sarabau(ヤセ-サラバウ)」(『和英英和語林集成』(『和英語林集成』の改訂増補版):これは「さらばひ」)。

「『行衛(ゆくへ)が知れにやア、いヽ加減にさらばひ置いて、如何(どう)だ相談(サウダン)する気は無いか』」(「歌舞伎」『蝶鶼山崎踊(てふもひよく やまざきをどり)』:これは、行方の知れないそんな男は捨ててしまって俺の女にならねーか、というような場面ですが、この「さらばひ」は、(そんな男は)御骨(おこつ)にしておいて→死んだと思って、ということか)。