◎「さらし(曝し・晒し)」(動詞)

「され」の他動表現。枯れ→枯らし、外(そ)れ→外(そらし)、のような変化であり、「さらし」は、されることをさせ、という意味になるわけですが、この場合の「され」は動詞「し(為)」の受け身表現。つまり、原形は動詞「し(為)」に助動詞「られ」のついた「せられ」ということなのですが、これに上記のような他動表現変化が、活用語尾がA音化し「し」がつく、が起こり「せられ→せららし→さらし」になっている。つまり「さらし(曝し・晒し)」は、(受け身たる)されることをさせ、の意。何かを受け身の状態に、なにかを、なにかを受けている状態に、する。なにを受けるかというと、たとえば日の光、あるいは風、あるいは水流。日の光を受けたことによる変質を思わせるような薬物の影響を受けさせることも「さらし」ということがある(たとえば布などを漂白剤にさらして白くする。古くからのその意味での「さらし」は布などを灰汁(あく)で煮て、水で洗い、日に干す)。日の光や風ではなく、人が見ることの影響下におくことも言う→「人目にさらす」。一般的にそうされているものが「さらしもの」。

「村落婦女夏月會集 布ヲ浣(あら)ヒ曝乾(サラセリ)」(『常陸風土記・那賀郡』)。

「多摩川にさらす(左良須)手作りさらさらになにぞこの子のここだ愛しき」(万3373:「さらし」に「さら(更)」がかかっているということ。「ここだ」はなにかが次々と湧き上がってくるような動態であることを表現する)。

「かばかりして守る所にはり(?)一だにあらば。まづいころして(射殺して)ほかにさらさむとおもひ」(『竹取物語』:これは人目にさらす。「はり」に関しては諸説あり、かはぼり(蝙蝠)とも言われますが、この前で天を言っているわけですから、ここで言っているのは地に関するものでしょう。これは「ひあり(ひ蟻)」か。小さな蟻)。

 

◎「さらば」

「さあらば(さ有らば)」ということであり、「さ」は情況的に何かを指し示し、そうあるならば、ということなのですが、一般的な「さらば」と、それが別れの挨拶として用いられる「さらば」がある。

・一般的な「さらば」

「~ば」という表現は、それ以下の叙述が「~」という条件下にあることを表現する。海ゆかば水漬(みづ)く屍(かばね)→海にいくだろうという条件下においては私は水漬(みづ)く屍(かばね)になる。これは、表現構造の基本は、AはB(「は」は助詞)、であり、「A」「B」それぞれが、名詞ではなく、文になっている。「さらば~」も、「は」以下の叙述が「さあらむ」の条件下におかれ「さあらむ は ~」になるのですが、これは、期待通りの叙述になる順接の場合と、期待に反した叙述になる逆接の場合がある(順接になるか逆接になるかは文の内容全体から判断される)。

「親もなく、いと心細げにて、さらばこの人こそはと、事にふれて思へるさまもらうたげなりき(努力がひどく思われる様子だ)」(『源氏物語』:そういうことだから。順接)。

「別当に『かかる事なんある』と申しければ、『さらば免(ゆる)してよ』とて免(ゆる)されにけり」(『宇治拾遺物語』:そういうことなら。順接)。

「白衣なる法師どもに具しておはしけるが、さらばいそぎもあゆみ給はで彼処此処に立ち休らひ」(『平家物語』:そういうことなのに。逆接)。

「勧進帳を捧げて十方檀那を勧め歩きけるが、さらばただも無くして、『…………』など、かやうにおそろしき事のみ申しありく(歩く)間」(『平家物語』。そういうことなのに。逆接。恩赦を受け大赦されたのに僧・文覚が、ということ。この逆説的「さらば」は「~が、さらば」と表現され、「~が」による逆接のさらなる強意の状態になっている)。

・挨拶の「さらば」

この「さらば」は別れの際の挨拶になる。この語「さあらば→さらば」の意味は「さの様(やう)にあるなら」ということであり、後に別れの挨拶として一般化する「さ様(やう)なら・さようなら」に、同じと言っていいほど、酷似している。

「さらはよと別れし時にいはませは我も涙におほほれなまし」(『御饌和歌集』:「おほほれ」は後に「おぼれ(溺れ)」になる語)。

「いと、心もとなけれど、『なほ、なほ』と、うちつけに炒(い)られんも、さま悪しければ、『さらば』とて、かへり給ふ」(『源氏物語』:「うちつけに炒(い)られんも」は、にわかに何かにおいたてられたようになるのも、ということでしょう)。

のちには「さらばえ」「さらばへ」「さらばや」「さらばよ」「さばえ」「さばよ」といった挨拶も現れる。「え・へ・や・よ」はそれぞれ呼びかけや詠嘆的発声。「あばよ」は「あらばよ」。意味は「さあらばよ」が粗略に言われているということ。「さらばえ」は江戸時代に多く遊郭で言われたそうです。