◎「さよ(小夜)」
語頭の「さ」は、S音の動感とA音の全感により情況的動感が表現され動態を促す「さ」。動態を促すとは、誘う、ということ。「さ夜(よ)」、すなわち、人を誘う情況的動感が感じられる夜(よ)、とは、男と女の夜の世界へと誘う夜です。ただし、時代がくだれば、この語は「よ(夜)」の軽い雅称のような用い方をされていくだろう)。
「真木の上(へ)に降り置ける雪のしくしくも思ほゆるかもさ夜(佐夜:さよ)問へ吾が背」(万1659)。
「…さよどこを並(なら)べむ君(きみ)は…」(『日本書紀』歌謡47)。
「心の下紐打解て、小夜の枕を河島の、水の心も浅からぬ御契に成しかば…」(『太平記』)。
(「さ(動態の促し)」5月14日参考:これは誘いになる)「あさず食(を)せ ささ」(『古事記』歌謡40:(酒を)飽くことなく飲め さあさあ)。
◎「さら(皿)」
「あさら(浅ら)」。「あ」の脱落。「ら」は情況や何らかの情況にあるもの・ことを表す。浅い情況のもの、の意。平板状の、食べ物その他を受ける容器です。
「佐良 卅口」(『正倉院文書』)。
「右衛門督は御前の事、沈(ヂン:沈香木)の懸盤(かけバン)、白銀の御さらなど、詳しくは見ず」(『紫式部日記』)。
「盤 ……佐良 器名也」(『和名類聚鈔』)。
◎「さら(新)」
「さるや(去る「や」)」。「さる(去る)」はどこかへ行ってしまうということであり、「や」は疑惑を表現する発声。「さるや(去る「や」)→さら」は、どこかへ行ってしまう疑惑、疑問の発声、ということであり。これが、去ったのか?なくなったのか?そんなことがあるのか?と思うほどそうだということ、それほど不純な夾雑物のない純粋な→生まれたばかりや作られたばかりの、まだ使われ手垢で汚れたりしていない新しい、といった意味にもなり、ただそれだけの、ほかになにもない、といった意味にもなる。
「たとひ学者にふるまひあしき人ありとも、さらの凡夫には優(まさ)り候べし」「…論語読まずの論語読まずは、さらの凡夫にて、一つも取柄なければ…」(「浮世草子」『元禄太平記』:なんの疑惑も疑問もない凡夫)。
「さらセタイ(新世帯)・さらショタイ(新所帯)」(結婚などによる新たな家庭。まだ手垢に汚れていない生まれたばかりの所帯)。「さらゆ(新湯)」(まだ誰も入浴していない新しい湯)。「さらチ(更地・新地)」(地以外なにもない地)。「そんなつもりはさらさらない」(なんの疑惑もなくまったくない)。
◎「ざら」
「ざるうら(ざる裏)」の音変化。「~ざる」は否定表現ですが、この場合は「あらざる(有らざる)」(けしてない)のそれ。「ざるうら(ざる裏)→ざら」は、その、けしてない、の裏。つまり、絶対に有る、常に、普通に、当たり前に、ある、ということ。「(そういうことは)ざらにある」は、あらざること、などということとは逆現象である、ということ。つまり、普通に、当たり前に、ある。「ざらに居つづけ」(「洒落本」:当たり前のように居つづけ)といった表現もある。