◎「さみし(寂し)」(形シク)
「さやみひし(鞘身ひし)」。「さや(鞘)」は刀の鞘(さや)。「み(身)」はそこにおさめられる刀身、すなわち刃(は)。「ひし」は密着を表現する擬態。「さやみひし(鞘身ひし)→さみし」とは、刀の鞘(さや)と刀身が、すなわち、刃(は)が、密着しなかなか刃(は)がでない。Aは?Bは?Cは?と期待する「は」がなかなか出ない。この表現が、期待的にあると思っている何かがないこと、それによる喪失感を表現し、これが形容詞となった。
この語は一般に「さびし(寂し)」の母音変化と言われ、意味も、ほとんど同じと言っていい意味で用いられる。「さびし(寂し)」も喪失による虚(むな)しさを表現する。しかし、「さびし(寂し)」は『源氏物語』などにもある語ですが、「さみし」はたぶん江戸時代の語であり、それほど長い間母音変化がないことも不自然であり、「わびし(侘し)」「きびし(厳し)」などにはそうした母音変化は起こっていない。母音変化と考えるのは不自然なのです。この「さみし」は、たぶん、江戸時代の浄瑠璃や戯作の世界から生まれた語でしょう。『節用集』(伊勢本)に「隘 サモシ サミシ」「狭 サモシ サミシ」と書かれ、その少し後に「閑 サビシ」と書かれているものがあるのですが、この、(空間であれ心であれ)狭(せま)い、という意味の「サミシ」は「さみゆゆし(狭身由由し)」の「ゆ」のI音との交替が作用しているのでしょう。「さびし(寂し)」とほぼ同意の「さみし」ではない。(参考)「陋 サモシ イヤシ」「閑 サビシ シヅカ」(『雑字類書』「節用集(伊勢本)」)。
江戸時代以降、「さびし」「さみし」はどちらも言われ、それも、地域性などあったりするわけではなく、一人の人がどちらも言う。どう使いわけられているのかは非常に微妙な問題なのですが、「さびし」の方が、語として公的というか、その喪失感や寂寥感がある程度深刻である印象は受けます。「あんなに元気だった子が突然病気で死んで、家の中がすっかりさびしくなった・あんなに元気だった子が突然病気で死んで、家の中がすっかりさみしくなった」。「齢をとって、最近すっかり髪の毛がさびしくなった・齢をとって、最近すっかり髪の毛がさみしくなった」。
「さびし(寂し)」(7月23日)も参照。
◎「さむし(寂し)」(形シク)
「さやみうし(鞘身牛)」。「さや(鞘)」は刀の鞘(さや)。「み(身)」はそこにおさめられる刀身、すなわち刃(は)。「うし(牛)」は、「牛」の音(オン)で意味を表現し「ギュウ」ということであり、この「ギュウ」が物と物との密着を表現する。「ぎゅっと抱きしめる」などというそれ(「力に任せてギユーと無闇に刮(こじ)りましたから」(「落語」『塩原多助』三遊亭園朝))。つまり、「さやみうし(鞘身牛)→さむし」は、刀の鞘(さや)と刀身が、すなわち、刃(は)が、密着しなかなか刃(は)がでない…。あとは「さみし(寂し)」に同じ。上記参照。これがシク活用の形容詞となった。意味は「さみし(寂し)」と変わらず、違いは鞘と身の密着を表現する擬態が「ひし」か「ギュウ」かだけなわけですが、「さぶし(寂し)」「さびし(寂し)」の影響を受け「さぶし(寂し)」の方が古典的といったこともあるいは有るのかもしれません。
「『夫(そりゃ)アそふと、だれぞ呼(かけ)てやらふじゃアないかねへ。さむしいヨ』」(「人情本」『春色梅児誉美』)。
「さぶし(寂し)」(7月25日)も参照。