「そあへ(そ堪へ)」。「そ」は、それ、と何かを指し示す(これは強調にもなる)。「あへ(堪へ)」は、全的完成感を表現する「あ」による動詞であり、他(それが環境一般であったとしても)に対し(自己の)全的完成感を働きかけること。すなわち自己を維持し、その全的完成感を失わせようとする力に対し自己を失うまいとする。自己の完成感・完全性を無意味にしたり無価値化したりすること(環境)への相対的動態として「あへ(堪へ)」が現れる(たとえば「あへて(堪へて)」―自己を維持する努力をして)。すなわち、「Aそあへ(Aそ堪へ)→Aさへ」は、「A」それを、その完成感・完全性を無意味にしたり無価値化したりすること(環境)に対しその完成感・完全性を維持し、の意。それにより、「Aさへ」によってAに特別な意味性や価値性が働いていることが表現される。「Aさへ」と言った場合「A」は物(もの)であることもあれば事(こと:事象)であることもある。「(ないと思われそうだが)Aさへある」という表現も「(あると思われそうだが)Aさへない」という表現もある。慣用的表現と言ってもいいような「袖(そで)さへ濡(ぬ)れ」は、袖は、普段、人々は濡らさぬよう生活している。しかし、それをあへて(堪へて)濡らすことがある。そうしてはならないものでありながらそうすることが人の全的完成感を表現することとして、そうすることが人の人らしい現れとして、濡らすことがある。すなわち、涙をぬぐうとき。

『万葉集』における「さへ」の漢字表記は、音(オン)によるもの以外では、「共、并、兼、副。障、塞」といった書き方をする。「共」の系列は、(風が吹くだけではなく)雪さへ降る、といった場合、雪が添加的に加わったり並んだりする印象によるもの。「障」の系列は、風さへ吹かない、などと言った場合、何かの障害が働いているような印象であることによったり、「天雲の影さへ(塞)見ゆる」(万3225)のように、障碍を克服しなにものかやなにごとかが実験しているような印象を表現し用いられている。

 

・一般にそういうことはないと思われそうなAに関し、「Aさへ~」という表現により、Aに~が起こることの貴重体験性や不思議さや奇跡性が表現されたりする。

「赤玉は緒さへ(佐閇)光れど白玉の君が装(よそひ)し貴くありけり」(『古事記』歌謡8:ふつう、光るのは玉だが、緒(を)もか?。Aそあへ光る)。

「遊ぶ子供の声聞けば我が身さへこそ動(ゆる)がるれ」(『梁塵秘抄』:「我」は大人であり、さらには、老人。Aそあへゆらぐ)。

「(割(さ)けるとは思えないような)地さへ割(さ)け」。「(手にとっただけで)袖さへ匂(にほ)ふ」。

・「~だ。Aさへ~だ」という表現により、Aではそうではないと思われるかもしれないが「Aさへ」という表現により、ものごとたる「~」への特別な思いが表現されたりする。

「今日も見つれども明日さへ見まく欲しき君かも」(万1014:今日も見た。「明日」もそれが全的完成的に維持され見たいあなただ。Aそあへ見たい)。

・一般に、有る、と予想され、あるいはされそうな、そうであれば当然期待もされている、あるいは期待されそうな、なにごとかやなにものかに関し「Aさへない」「Aさへしない」という表現によりそのものやことの欠乏やあることの珍しさが強調的に表現されたりもする。

「まさしき兄弟さへ似たるは少なし。まして従兄弟に似たるものはなし」(『曽我物語』:似た人がいるのは稀だ。Aそあへあまり似ていない)。

「(黄金を使いもせず)家にさへ置かず(野原に埋めた)」(Aにそあへ置かず)。「そんな大事なことを親にさへ言わず…」(Aにそあへ言わない)。「この部屋には窓さへない(普通はあるだろう)」。

・「Aさへあらば・あれば」という表現により、Aがないことの(その全的完成感がそこなわれていることの)無念さ、悲嘆が、同時に、それがあることの喜びや満足、その特別な意味性や価値性、が表現される。

「命さへあらば見つべき身の果を偲ばん人の無きぞ悲しき」(『新古今和歌集』:Aそあへあるなら)。

「生きていてくれさへすればそれでいい」(A(事象)そあへすれば)。「命さへあれば…」(Aそあへあれば:元来は「あらば」(~だったら)は想定的なことを表現し、「あれば」(~なので)は現実的なことを表現しますが、後には「あれば」で想定的なことを表現するようになる。つまり「命さへあれば…」は、元来は、生きているから、の意ですが、後には、生きているなら、の意になる)。

「吾妹子(わぎもこ)が赤裳(あかも)のすその染(し)み漬(ひ)ちむ今日の霡霂(ひさめ)に吾さへ濡るれば」(万1090:この歌の第五句は、多くのところで、「吾共所沾者」(西本願寺本)が「吾共所沾名」に書き換えられ「われさへぬれな」と読まれ解釈されているようですが、そう読んだ場合、歌意は。妹の裾は濡れ汚れているだろう、今日の雨に、(私は濡れないようだが)そんな私さえ濡れましょうね、といった奇妙なものになる。これは西本願寺本の「吾共所沾者」であり、読みは「吾(われ)共(さへ)沾(ぬ)るれば」(「濡(ぬ)るれ」は「濡(ぬ)れ」の已然形)でしょう。歌意は、妹の裾は濡れ汚れてしまっているだろう、今日の雨に、私さえ濡れているから(妹はもっと濡れ汚れてしまっているだろう)、ということ。この歌は雨も気にしないようなひたむきな妹の姿が前提になっているのでしょう。