「さとへ(さと経)」。「さ」は情況的に何かを指し示す。「と」は助詞。思念的に何かを確認する。「へ(経)」は動詞。経過が進行する。「さて」は、そのようにと経(へ)、の意。進行した何らかの情況があることを表現する。「へ(経)」が連用形名詞化し、「さて」は何らかの情況の進行を意味する抽象名詞のように作用する。「さてにくきもの」「さてさてこれは」などの場合は情況の進行が反芻されそれへの感嘆が表現される。「さては」や「さても」もそれまでの情況の進行が提示されたり思われたりしている。物語がすすみ、「さてそのころ」と話が転換したとき、その「さて」の「さ」はそれまでその物語で語られ今にいたったすべてのこと。

 

・「雪寒み咲きには咲かず梅の花よしこのころはさても(然而)あるがね」(万2329:「咲かず」は「咲かぬ」とも読まれている。「咲かず」は現状表現になり、「咲かぬ梅の花」は、梅の花とはそういうものだ、という表現になる。ここは現状表現であり、そういう現状だが…と歌が続く。「さても(然而)」は「かくても」とも読まれている。「かく」は通常は「斯」や「如此」と書き、「然而」とは書かないでしょう。「かくもあるがね」は、いまはこういうこともあると思っていよう、といった意味になりますが、咲かぬ梅の花、かくてもあるがね→梅の花とはそういうものだ、いまはこういうこともあると思っていよう、は表現として奇妙でしょう。この歌は、「然而」の読みは「さても」であり、この歌は、咲きには咲かず(それが現状だ)、いまはそういうこともあると思っていよう(あせらなくても、やがて暖かい春が来る)、ということでしょう。結局、「かくても」と読むのは、「さても」では意味がわからないから、というそれだけのことでしょう。この場合の「さて」の「さ」は寒さの中で梅が咲き遅れているその現状を指し示している。「さて、どうしよう」などの「さ」も今の自分の現状を指し示している)。

 

・「見そめつる契(ちぎ)りばかりを捨てがたく思ひとまる人(みそめた思いを神への誓いのように大切にする人、ということか)は、ものまめやかなりと見え(誠実に見え)、さて、たもたるる女のためも(この「ため」は、彼がそういうことをしたためこうなった、のように、事象の因を表現するそれであり、「たもたるる女のためも」は、それによって(身や心が)維持される女が因となっても、の意)、心にくくをしはからるるなり(「心にくし」は思いや考えのあり方に障碍感が生じることを表現するが、自分はそれに及ばないのではないかと思うなにごとかも表現する→「心にくい演出」)」(『源氏物語』:この「さて」の「さ」はそれ以前に言った内容を指し示す)。

 

・「すべて何も皆、ことのととのほりたるはあしきことなり。しのこしたるを、さてうち置きたるは、おもしろく、生きのぶるわざなり」(『徒然草』:この「さて」は、そのまま、のような意になる)。

 

・「とかう(とかく:あれこれ、とやかく)いふ人あまたあなりときく。さてなるべし」(『蜻蛉日記』:この「さてなるべし」は、世の中はそういうものだろう、のような意)。

 

・「さて二日ばかりありて見えたれば『これさてなんありし』とて(文を)見すれば『ほどへにければびんなし』とて…」(『蜻蛉日記』:「これさてなんありし」は、これは届けられた文(ふみ)に関して言っていますが、これを言っている人(藤原道綱母:『蜻蛉日記』を書いた人)は使者に直接応対したわけではないでしょうから、たしかそういう事情だったようです、のような意味でしょう。「事情」とは受け渡しの際のやりとり)。

 

・「(私は)さらに(まったく)湯漬(ゆづけ)をだに食はせじ。心もなかりけりとて来(こ)ずは、さてありなん」(『枕草子』:心配りもない人だ、とやってこなくなっても、当然そうあるだろうと思うだけ、のような言い方)。

 

・「はて、そなたが待(また)ば、愚僧も待(また)うはさて」(「狂言」『しうろん(宗論)』:この「さて」の「さ」は「あなたが待つなら私も待つ」ということ。つまり、そのように、のような意であり、あなたが待つなら私も待つ、そうする、のような言い方)。