◎「さち(幸)」
意思的・故意的な動態であることを表現する「し(為)」がつき「しあて(為当て)→さて」が命中させること。命中させて射ることが「さてい(命中射)→さつ」(E音とI音の連音がU音化している)。この「さつ」に、動詞「い(射)」の効果により、この「さつ」が動詞連体形として作用し、「や(矢)」や「を(男)」がつけば「さつや(猟矢)」(狩猟用の矢)や「さつを(猟男)」(狩りをする人)などになり、それに、「さつ」が動詞連体形のように作用し、指示代名詞のような「い」(その項参照:下記に一部再記)のついた語が「さつい→さち」。つまり、「さち(幸)」は、命中して射るそれ、ということであり、命中して射ること、命中して射ることによるもの・こと、という意味になる。命中して射ることによるもの、は獲物であり、人々が願い欲するものです。それは狩りの獲物であることもある。農産物であることもある。もたらされたよろこぶべきこと(事)であることもある。あたるそれ、あたって得るそれ、という意味で狩りや漁の道具も意味する(たとえば釣り針を「さち」と言う)。
「弟(おとのみこと)兄(このかみ)の釣鉤(ち)を取りて、海に入(のぞ)みて魚(いを)を釣る。倶(とも)に利(さち)を得ず」(『日本書紀』:これは収穫物)。
「おのおのさち(佐知)替(か)へて用ゐむ」(『古事記』:これは漁の道具)。
「復(マタ)天(アメ)ノ福(サチ)モ蒙(カカブ)リ永(ナガキ)世(ヨ)ニ門(カド)絶(タエ)ズ奉(ツカヘ)待(マツ)リ昌(サカエ)ム」(『続日本紀』宣命・神護景雲三年十月乙未朔(一日):「福」は同じ宣命の中で「サキハヒ」とも読まれている。「福」は『説文』に「祐也」とあり、「祐」は『廣韻』に「神助」とある。動詞「かがふり(被り・冠り)」はその項)。
「ここに幸(さち)あり 青い空」(『ここに幸あり』(昭和31(1956)年)・歌謡曲)。
・「い」
代名詞のような「い」。古代には「それ」や「その」のような「い」があった。
「此(コ)ヲ持(タモツ)イハ(伊波)稱(ホマレ)ヲ致(イタ)シ、捨(スツル)イハ(伊波)謗(ソシリ)ヲ招(マネキ)ツ」(『続日本紀』宣命・神護景雲三年十月乙未朔(一日)) 。
「紀の関守い(伊)とどめてむかも」(万545:紀の関守それがとどめてしまうのだろうか)。
「新世(あらたよ)にともに在らむと玉の緒の絶えじい(射)妹(いも)と結びてし言は果たさず…」(万481:絶えないその妹(いも))。
これは漠然と不特定な対象(情況でも)も表現する。「乱れぬい(伊)まに見せむ子もがも」(万1851:この「いま」は「今(いま)」ではない。「いま(い間)」(その間))。
「い」(I音)は直線的進行感を表現し、意思の直線的進行感が意思の進行先に何かあること、その何か、を感じさせ、伝えた。
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◎「さっしゃり」
「させしやり」。「いらっしゃり」と同じように(→「いらっしゃり」の項:「いらせしやり(入らせ為遣り)→いらっしゃり」(※下記))、「し(為)」の使役型他動表現(「させ」)と、動詞「し(為)」「やり(遣り)」により、相手に遠慮した、相手を尊重した、丁寧な表現になっている。活用は四段活用型と下二段活用型(「さっしゃれ」)が現れているが、下二段活用型は語尾の「やり(遣り)」に尊敬の助動詞「れ(終止形、る)」がついて「やられ」になっているということでしょう。「此(この)彦えがゐるからは気遣ひはさっしゃるな」(「歌舞伎」:「させしやるな→さっしゃるな」)。動詞連用形につくこともある。「茶代を忘れさっしゃれた」(『狂言記』)。
「し(為)」以外の動詞による「~しゃり」という表現もある。これは「(四段活用)動詞未然形+せしやり→動詞+しゃり」(たとえば、行かせしやり→行かしゃり)、「(下二段活用)動詞未然形+させしやり→動詞+さっしゃり」(たとえば、忘れさせしやり→忘れさっしゃり)になる。つまり(「~せ」のついた)「しゃり」は四段活用動詞につき、(「~させ」のついた)「さっしゃり」は下二段活用動詞につく。「ああ、いかう(ひどく)ふかそうに御ざりまする。かみかしもかへ(上か下かへ)まわらしゃれませい(回らしゃれませい)」(『狂言記』)。
※ 「いらっしゃってください→入(い)らせ為(し)遣(や)りてください→はいらせることをしてやってください」。
・五十音順で言うとこのあたりに「さつき(皐月・五月)」があるのですが、旧暦名(月暦名)は全体をまとめないと意味が分からないので「むつき(睦月・一月)」の項でまとめられます。