◎「させ(助動詞)」

S音により動感を表現するものですが、「せ(助動詞)」と「させ(助動詞)」の違いに関しては、「せ(終止形「す」)」による表現が動詞活用語尾がA音化する場合であるのに対し(たとえば「咲き」→「咲かせ」:→「せ(助動)」の項参照)、客観的な外渉的動態として現れている類型の動詞(客観的他動態・客観的自動態の動詞:下二段活用動詞)の場合、や、動態が活用語尾に小さな物語のように圧縮している動詞(上二段活用動詞→「おち(落ち)」「おとし(落とし)」の項)の場合、語尾変化すると(たとえば下二段活用動詞「たへ(耐へ)」が「たはせ・耐はせ」になり、上二段活用動詞「おり(降り)」が「おらせ・降らせ」になると)客観的な外渉的動態自体が破壊されたり動詞の意味性自体が破壊されたりするため、そこで、活用語尾E音やI音のまま「し」を添え、それにより動詞全体に動感を生じさせ、この「し」がA音化し「さ」になり、この情況化された動態に「せ」により外渉的動感を生じさせ、「させ」になり、使役や尊敬が表現される(「耐(た)へ」なら「耐へさせ」、「降(お)り」なら「降りさせ」)。文法で言う受身・可能・自発・尊敬の助動詞「れ(終止形「る」)」が下二段活用動詞・上二段活用動詞につく場合「られ」(終止形「らる」)」になることと事情は似ています(つまり、四段活用動詞の場合「~せ」、下二段活用動詞や上二段活用動詞の場合「~させ」。ならば「見(み)」「着(き)」「居(ゐ)」などの上一段活用や「来(き)」のカ行変格活用動詞なんかはどうすんだ、という話もありそうですが、上一段活用動詞は母音変化を起こすと動詞の意味がわからなくなるのでそのままで「~させ」(「見(み)させ」「着(き)させ」「居(ゐ)させ」)。「来(き)」は妥協的にO音で情況化を生じさせつつ「~させ」(「来(こ)させ」)。つまり、四段活用動詞以外はすべて「~させ」。サ行変格活用動詞の「為(し)」の場合、妥協的にE音で情況化を生じさせつつ「~させ」で「為(せ)させ」になりそうですが、A音化し「~せ」がついたように「させ」と言います(→「思うようにはさせない」)。これは「せさ」が「さ」の一音になっているということでしょう)。

なぜこの「させ(終止形「さす」)」(四段活用動詞につく場合は「せ(終止形「す」)が使役や尊敬・謙譲を表現するかに関しては「せ(助動詞)」の項参照。使役に関して言えば、活用語尾のA音化で情況化・全体化した動態にS音の動感を働かせ人を情況化した動態で動かそうとする。それが使役。

 

使役表現の「させ」は他に何かの動態を働きかけその「他」にその何かの動態が生じるようにする。これも他動表現の一種なのですが、他動表現はただ対象たるなにかに動態を働きかけるのに対し、使役型他動表現はその対象たるなにか自体がなにごとかをすることを働きかける。「寝殿に鳶(とび)ゐさせじとて…」(『徒然草』:寝殿に鳶は居させないと…)。「さるは(そういう事情で)、たよりごとに物もたえずえ(得)させたり(便りごとに必ず贈り物もした)」(『土佐日記』)。

昔は、「射られ」(受け身)を「射させ」(使役)と表現する類型の表現があった。これは武士が、俺は射られたのではない、射させたのだ、と強気な表現をしたもの。「四郎左衛門も内甲(うちかぶと)を射させて引き退く」(『保元物語』)。

また、使役形他動表現は「さし」の四段活用でも成立する。「身体髪膚を父母に受け、あへて破り損(ソン)ささぬを孝行の始めとするなり」(「仮名草子」)。

 

謙譲や尊敬表現の「させ」

謙譲―それ自体で謙譲を表現する動詞(「聞こえ」)の下について「聞こえ」をさらに間接的な表現とし(それが、使役表現ではなく、間接表現であることについては「せ(助動詞)」の項参照)さらに厚い謙譲が表現される。「みづから聞こえさすべきこと」(私自身が申し上げなければならないこと)。

尊敬―動詞を「~させ」と間接表現し(上記とおなじように、それが、使役表現ではなく、間接表現であることについては「せ(助動詞)」の項参照)さらにそれ自体で尊敬を表現する動詞(「たまふ(給ふ)」「おはします」など)が続き厚い尊敬が表現される。「宮の出でさせたまふに…」(中宮がおでかけになる際に…)。「『…上もきこしめして興ぜさせおはしましつ』と語る」(『枕草子』)。

つまり、謙譲や尊敬表現の「させ」は、使役表現ではなく、(ある動態をある主体の動態として表現する直接表現ではなく、情況の動態として表現する)間接表現なのだということです(→「せ(助動詞)」の項)。

 

◎「させもぐさ」(これは「さしもぐさ」(6月29日)で書くべきことであり、それとほとんど意味は変わらない)

「さはせしもくさ(醂せ霜草)」。「し」は脱落した。「さはし(醂し)」は「さはせ(醂せ)」と表現される場合があったものと思われます→「さはし(醂し)」の項。「しもくさ(霜草)」に関しては「もぐさ(艾)」や「さしもぐさ」の項。

「思ひだにかからぬ山のさせもぐさ誰(たれ)かいぶきのさとはつげしぞ」(『枕草子』:この「させもぐさ」は、これは蓬(よもぎ)の別名でもあり、ありふれた、とくにみるべきこともないもの、そうした一般の、普通の、人々、という意味でしょう。とくに人の思いになどかからない人々です。その人が「いぶき」へ行くらしい。「いぶき」という名の山はいくつかある。これは「息吹(いぶき)」でもあるのでしょう。その人が息吹(いぶき:呼吸)を得、生きる里(さと)。同時に、艾(もぐさ)からゴミを除く選別のように息吹で吹き飛ばされるかもしれない里(さと)。誰がそんな里を告げ教えたんだ、と言っている)。

※ 「さしもぐさ」が、仏教的な意味での、一切衆生、の意味で言われることもあるのですが、これは『新古今和歌集』(1200年代初期)にある「なほたのめしめぢが原のさせもぐさわがよの中にあらんかぎりは」が観音菩薩の一切衆生済度の思いを言っていると伝えられたことによるらしい。そういう歌ではないと言った僧もいた(と『和訓栞』に書かれる)。この歌は、「たのめ」を他動表現として読んでそのように解されたのであろうけれど、これは自分に言い聞かせるような命令表現であり、ただくすぶって燃えるしか能のない埃(ほこり)のような人間だが、信じ、信頼し、頼みにしよう、という歌でしょう。