◎「さすたけの(枕詞)」
「さすとあけの(射す門開けの)」。「さすと、あけの」ではありません。「さす、とあけの)」。門(と)を開けると何かが射(さ)す、ということ。これは天照大神の岩屋戸へのさしこもりの印象が重なり、何が射すのかといえば、日が射す。現実に、物理現象として、明るくなるわけではありませんが、門(と)が開くと(日の光のような)何かが(世界に)射す印象であることを表現する。この枕詞は「みや(宮)」、そこに居る「きみ(君)」や「とねり(舎人)」(舎人は門を開く)に掛かる。
「さすたけの皇子(みこ)の宮人(みやひと)ゆくへ知らにす(どこへ行ったらよいのかわからなくなった、どうしたらよいのかわからなくなった)」(万167の「一云」:この表現により、「さす、とあけ」たる皇子(みこ)の宮人(みやひと)が)闇へ放り出されたような悲嘆にあることが表現される。これは草壁皇子の死去に際しての挽歌。この少し前で、その死去は「天(あま)の原岩戸を開き」と表現されている)。
「さすたけの君(きみ)はや無き」(『日本書紀』歌謡104:「はや」は感嘆。この歌は聖徳太子の歌とされるものであり、聖徳太子が衣裳(みけし)を与えなどした路傍の餓死者が聖人(ひじり)だったという特殊な事情の歌。つまり、ここで言っている「君(きみ)」は、道端に臥した飯に飢えた旅人のようだったが、実は聖人だった)。
万2773の「さすたけの(刺竹)よごもりてあれ(歯隠有)…」(万2773:「歯」は「は」と読む人もいる)は、「さすたけ」が習慣的に「刺竹」と書かれることによる(閉ざされた)竹の節(よ)ということでもあるでしょうし、(門(と)が開けば(眩しい恋の)光が自分に射す)世(よ)、ということでもあるのでしょう。
この語の語源は、「さす」は木の枝がのびたり若葉が萌え出たりすることを意味するそれであり→「若葉さす野辺の小松を…」(『源氏物語』)、「たけ」は植物の竹であり、竹の芽生えや成長を言っているとされることが一般です。しかし、竹のように素早く成長し繁栄していくのが宮とも、ましてや聖人たる君とも、思われない。
◎「さすらひ(流離ひ)」(動詞)
「さしふれはひ(指し狂れ這ひ)」。「さし(指し)」は目標感のある動態を表現するそれ(→「東をさして飛ぶ」)( 「さし(射し・差し…)」の項)。「ふれ(狂れ)」は遊離を表現する「ふ」によるそれ(→「気が狂(ふ)れ」(「ふり(生り・振り)」の項))。「はひ(這ひ)」は情況化すること(→「はひ(這ひ・延ひ)」の項)。指(さ)しが狂(ふ)れる、とは、動態の目標感に遊離が生じそれが固定・安定しない。「さしふれはひ(指し狂れ這ひ)→さすらひ」は、目標感の固定・安定しない動態が一般情況化した動態となること。なにを、どう、どこで、どこへ、といった動態の目標が安定的に定まらないのです。「さすらへ」という下二段活用もありますが、これは語尾が「はへ(這へ)」であり、これは他動表現ではなく、客観的対象を主体とする自動表現。つまり「さすらひ」も「さすらへ」も意味は変わらない状態になる。
「かく気吹(いぶ)き放ちては、根の国・底の国に坐(いま)す速(はや)さすらひめといふ神、持ちさすらひ失ひてむ」(「祝詞」六月晦大祓(みなづきのつごもりのおほはらへ):これにより、世の穢れたる、罪たることがあらゆる目標動態を失い無効化する)。
「百姓(おほみたから)流離(さすらへ)ぬ。或(ある)いは背叛(そむくもの)あり」(『日本書紀』)。
「頼み来(こ)し我が心にも捨てられて世にさすらふる身を厭ふかな」(『玉葉集』)。
流罪、左遷などにあい、社会的な安定的生活基盤が喪失した状態になることも意味する。
「われは…源為朝と呼(よば)るものなるが、故あって伊豆の大島に謫(サスラ)へり」(「読本」『椿節弓張り月』)。
「Sasurai, o, ota. Ander desterrado, o como vagamundo sin lugar, ni morade cierta(「追放されさ迷い歩く。または定まった住居も居場所もない放浪者として」といった意味か)」(『日葡辞書』)。
◎「さすり(摩り)」(動詞)
「さしゆり(差し揺り)」。「ゆり(揺り)」は他動表現。何かに介入感を生じさせ同時にこれを揺らすような動態を行うこと。
「ア、せつねへ。あんまり笑ったらばくるしいくるしい。トむねをさする」(「人情本」)。