◎「さえ(冴え)」(動詞)
「さはえ(爽え)」。「さは(爽)」はその項。「さは(爽)」を語幹とする活用語尾「え」の動詞ということです。活用語尾の「え」は情況を表現しますが、これがR音の場合(「され(曝れ)」の場合)は情況表現が客観的であるのに対し(客観的対象の情況が表現され)、Y音の場合は主体的・情感的です。「さは(爽)」は情況の一変感や情況から全的に何かが抜けていった感覚が表現されますが(→「さは(爽)」の項)、それらが環境的冷却を表現する。「… 置く霜も 氷(ひ)にさえ(左叡)わたり…」(万3281)といった表現であり、それにより「さえ」といっただけで凍ること(そんな印象になること)を表現したりもする。また、情況から何かが抜けた一変感は情況や情景の明晰感も表現する。「月の影さえて…」(『新古今和歌集』)。「岩もる清水音さえて夏のほかなるひぐらしの声」(『千載和歌集』)。「目がさえて眠れない」。「さえない表情」(すっきりとした爽やかさのない表情)。
◎「ざえ(才)」
「チサイえ(知才得)」。「知(チ)」は記憶や思考活動を意味しますが、原意は息を吐くこと。声帯が振動すればそれは声(こゑ)になりそこに意味性があれば言語になる。それが発生することや発生したそれが「知(チ)」ということでしょう。「才(呉音、ザイ、漢音、サイ)」の原意は、力(ちから)をせき止めることやせき止められた力(ちから)、ということでしょう。『説文』には「才」の説明として「艸木之初也。从丨上貫一,將生枝葉。一,地也」とある。それは草木(艸木)の(成長の)初め(始まり)だ、「丨」に従(从)い一を上に貫く、將(まさ)に枝葉(えだは)生(う)まれむとす、「一」は地だ、ということか。そのせき止められている力が何かをなしとげるわけです。その「能」が「才能」、生まれつきそれが備わっていれば「天才」。その「知(チ)」と「才(サイ)」を得ている、それが備わっている、こと、その内容、それが「チサイえ(知才得)→ざえ(才)」。
「なほざえをもととしてこそ大和魂の世に用ゐらるる方も強う侍らめ」(『源氏物語』:ここでの「ざえ」は学問であり、ここでの表現によればそれは「つひの世の重鎮となるべき心おきてを習」うこと)。
「さらぬ事(文の才以外のこと)の中には、箏ひかせ給事なん、一のさえにて。次には横笛…」(『源氏物語』:ここでの「ざえ」は箏(こと)を奏でることなど)。
この語の語源説としては「才」の音(オン)であることが常識のようになっています。その場合、意味として、「ざえ」における「知(チ)」の意が欠ける。
・「さうらひ(候ひ)」「そうろう(候)」
これは「さぶらひ(候ひ)」でふれられます。