◎「こらへ(堪へ)」(動詞)
「こりあへ(凝り堪へ)」。「あへ(堪へ)」は全的完成感を維持し自己を維持すること(2019年7月14日)。「こりあへ(凝り堪へ)→こらへ」は、凝固・凝縮し自己の完全性を維持努力する状態になること。凝り、自己を維持すること。凝り凝縮することは効果を増強させるわけですが(→「こみ(込み・混み)」の項・4月22日)、この場合は自己の自己たる効果が増強する。「たへ (耐へ)」に意味は酷似しているわけですが、「たへ (耐へ)」の方が自己の完全性を損なおうとする作用に対する反作用性は強い。
「片岡七騎が中に走り入りて戦ふほどに、肩も腕(かひな)もこらへずして、疵多く負ひければ、叶はじとや思ひけん、腹掻き切り亡せにけり。弁慶今は一人なり。」(『義経記』衣河合戦の事)。
「其の体焼爛して、その香はなはだ臭くして、少しも堪(た)へこらふべくもなし」(『古今著聞集』)。
◎「こられ(嘖られ)」(動詞)
怒り叱る状態になることを表現する「こり(呵り)」という動詞があったものと思われます(※)。この「こり」はただ具体的現実的に何かを指し示し指摘し大きな声(この怒声が怒りを表現する)で言う「これ!」や「これら!→こら!」の動詞化。「こられ(嘖られ)」はその「こり」の受身表現の動詞化。
「汝(な)が母にこられ(己良例)吾(あ)は行く」(万3519:女の子の家へ(たぶん夜に)忍んで行き、母親に見つかり怒鳴られたわけです)。
この動詞は、事実上、ほとんど、上記のような受け身表現しか必要性はないでしょう。我こりて、といった表現はまず現れないと思われます。
※ この「こり(呵り)」はたぶん古代東国の俗語的なものでしょう。その後の発展性はないです。後世では、同じような場面では、怒(おこ)られ、叱(しか)られ、怒鳴(どな)られ、といった言い方をします。