「こをのみみ(此をのみ見)」。「こ(此)」は現在性(現(ゲン)に在(あ)り、の性)・特定性を表現する「こ」によりなにかを特定的に示す。「のみ」は何かを限定する助詞。これが、「Aを此(こ)をのみ見(み)食ふ→Aをこのみ食ふ→Aを特に選び食う。Aを此(こ)をのみ見(み)て→Aをこのみて→Aを特定的に選択し」といった表現から「このみ」が動詞連用形のような印象となり、「このみ」が動詞化した。「此(こ)をのみ見(み)」(これのみを見)は特定的な何かを選択する選別があることが表現される。たとえば、「七夕(なぬかのよ)のみ逢(あ)ふ」(万2032)と言った場合、七夕の夜に限定的に逢うことが表現されるわけですが、「七夕(なぬかのよ)此(こ)をのみ見(み)逢(あ)ふ」と言った場合、多くの夜の中から七夕の夜が選択されその夜に逢うことが表現される。これにより「お前はAが好(この)みだ」といった表現もされ、「好み好く」「好み習ふ」といった表現も行われたでしょう。すなわち、「このむ」は、何かに心がとらわれていること、何かに興味、嗜好、関心がひかれていること、特異的に興味、嗜好、関心がひかれる状態になっていること、を表現する。「好きだ」と言われるより「好みだ」と言われる方が融和性や誘引性が表層的な印象を受けるのは、「このむ(好む)」という動詞が誘引されていることの、内心の、自発的な表明ではなく、その客観的な印象を、表現することに由来するからです。

「さすたけの大宮人は今もかも人なぶりのみ好(この)み(許能美)たるらむ」(万3758:これは女性関係で流罪になった中臣朝臣宅守(なかとみのやかもり)のその女性とのやりとりの歌の中の一つ。流罪の事情は明らかになっておらず、ここで言う「人なぶり」とは具体的にどういうことなのかもよくわかっていない)。

「のちのちは、師とすべき人もなくてなむ、(琴を)好み習ひしかど…」(『源氏物語』)。

「もてひがみたること好みたまふ御心なれば…」(『源氏物語』:「もてひがみたること好む」とは、通常やありきたりではないことに心惹かれる、ということか)。

「この男の家に前栽このみて造りければ、おもしろき菊など、いとあまたぞ植ゑたりける」(『平中物語』)。

 

・「このみそし」という動詞表現がありますが、「このみ」は動詞「このみ(好み)」であり、「そし」は動詞「そし(殺し・過し)」。「そし(殺し・過し)」は何かを期待動態を否定する動態にすることであり、動詞連用形につき「~そし」と表現されればその動態は期待される効果を生じずその効果の空しいものになる。「このみそし(好み殺し)」は、好(この)みでなにかをしているのだが期待効果が生じない。たとえば、高級で上品と思いつつ凝って着飾るのだが安っぽく下品だったりする。

「装束なども、例の(ありきたりの、普通の)うるはしきことは、目馴れて思さるべかめれば、引き違へ(そうではなく)、 心得ぬまでぞ好みそしたまへる」(『源氏物語』:この「心得ぬまでぞ好みそしたまへる」は、これはどうかな、と思う凝り方をした、ということでしょう)。