「かうしおく(斯う為置く)」(語の原形で書けば「かくしおく(斯く為置く)」)。「こうしておく」ということ。考えられる努力の負担から逃避したかったり、全体処理のためにはどうしたら良いのかわからなかったりするため、対応しなければならないことに対し、とりあえずこうしておこう、という措置をすること。それで問題が処理できる(相手や関係者の考えや思いをごまかせる)と思っている人間性の愚かさが感じられたり、他の人に、その措置で他の人が問題を感じることはない(他の人はその程度の問題把握能力しかない。それでその人をごまかせる、あるいは、だませる)と評価している、という思いが生じたりもする(他の人としては、ばかにされている、や、だまされている、という思いが生じる)。
「あなたがたを戸の外に締め出したあとで、私の心はすぐに悔い始めました。けれど私はそれを姑息にも酔いでごまかしました」(『出家とその弟子』(1916年))。
一時逃れ、甘やかし、厳格さ・潔癖さのないいい加減な対応、といった意味の「姑息(クゥシィ)」という中国語はある(※)。この語がその日本での音(オン)により「コソク」として用いられもする。
「菩薩の志は小根劣機の者の知(しる)ところではないじや。…………又慈悲心を以て悪人を誅す。姑息(こそく)の仁(ジン)、怯弱(ケフジャク)の心を以て一二人を宥(ゆるし)て大乱に及ぶことはせぬじや」(『十善法語』:(菩薩の志には)すべて『まぁいいや』とすませる者がおじけた弱い心)で一人二人を宥(ゆるし)て大乱に及ぶようなことはない)。
「こそく」はこの漢語の「姑息」の誤用と言われるのが一般なのですが(※)、漢語の「姑息」は、努力をしないこと、であり、努力をしない怠惰や臆病への非難が起こり、日本語の「こそく」は、(ある種の)努力をすること、や、努力の結果、であり、その努力の質への非難が起こる。
(付) 文化庁による平成22(2010)年度「国語に関する世論調査」では、「姑息な手段」を「一時しのぎ」の意味で使う人が15.0パーセント、「ひきょうな」の意味で使う人が70.9パーセントだそうです。つまり、漢語の意味で使う人がこの当時でも15パーセントくらいはいる。
※ 「姑息」の「姑」は『説文』に「夫母也」とされ『廣韻』に「舅姑又父之姊妹也」とされるような字であり、「息」は中国の古い書に「息猶安也」や「休也」と書かれるような字ですが、なぜ「姑」の「息」が、かりそめ、や、一時しのぎ、の意になるのでしょうか。この「姑」は夫の母の意であり、肉親的関係ではなく、疑似肉親的・義理肉親的関係の安堵・平安・幸福が「姑息」ということか?
「君子之愛人也以德,細人之愛人也以姑息」(『禮記・檀弓上』:君子は徳をもって他者を愛す、細人(小人)の他者への愛は姑息による)。