「我こそは…」などと言う場合の、文法で「係助詞」と言われる(一部の用法は国語学者により「間投助詞」や「接尾語」と言われる)「こそ」です(その1。長いので二部にわけました)。
「こ」は「これ」の「こ」と同じであり、O音の目標感のあるK音の感づき感で何かを現実感をもって示す(→「おき(置き)」の項)。「そ」はO音の目標感のあるS音の動感、その記憶再起性、により何かを指し示す。現実感のある指し示しは指し示した何かの特定強調となり、特定強調とは限定感の表現です。つまり「こそ」は現実感・具体感・限定感をもって何かを指し示す(限定感を表現することは同時に限定から除かれた何かに関する否定感を表現することでもある)。それは何かが強く強調されることでもある。「汝(な)こそは男(を)」(『古事記』歌謡6)。「これこそ本物」。
この「こそ」は、これによって何かを強調限定し、それによって情況が限定された動態を語尾E音の、終結せず(結果未定で)その動態がただ経過する動態表現(動詞已然形((その2)下記※):それが推量であれば決意の定まらない疑惑感を表現する)をしその動態の経過を限定しほかの事態の経過はないことを表現する。つまり、「こそ」による強調限定とただ事態が経過することだけ(結果未定)を表現する動詞已然形でほかの事態の経過はないことを表現する。「大君(おほきみ)の辺(へ)にこそ死なめ」(万4094)。
文法的には、この、語尾がE音化した動詞のあり方は「已然形(イゼンケイ)」と呼ばれ((その2の)下記※)、この表現は「こそ…已然形」の係り結びと呼ばれている。
「のちも逢はむと思へこそ死ぬべきものを今日まで生(い)けれ」(万739:「生けれ」は動詞「生き」(古くは四段活用)に完了の助動詞「り」のついたその已然形。生きている―そうできているのはやがて逢うと思っているからだ、ただそれだけでなのだ(逢う望みがなくなったら死んでしまう)、という表現。万3933にも同じような表現がある)。
動詞已然形の部分が疑問表現になっているものもある。「昨日(きのふ)こそ吾(わ)が越え来(こ)しか」(万1751:越えたのは昨日か?(そうだ、まさに昨日だ。なのに桜がもうあんなに散り始め…)、という表現)。「昔こそよそにも見しか」(万474:昔は自分に何の関係もないところと見ていたのか、昔は(そうだ、昔はそう見ていた。しかし今は…)という表現)。
「贖(あか)ふ(負担・損失を負って維持する(この場合は罪や穢れを払う、という意味でしょう))命は妹(いも)がためこそ」(万3201:妹のためなのだ。それ以外にはない)。
「うべしこそ」「かくしこそ」の「し」は副助詞とも言われる助詞の「し」(→「し(助)」の項)。「うべし」「かくし」はそれぞれ、「うべ(宜)」と言わざるを得ない(まったく「うべ」だ)、「かく(斯く)」と言わざるを得ない(まったく「かく」だ)、ということ。それが「こそ」で限定的に強調されると「うべし」「かくし」以外ありえない、という意味になる。