「こそをへ(こそ終へ)」。「こそ」は希求を表現するそれ→「こそ(希求)」の項 (→「梅が花散らずありこそ…」(散らずにありますように…))。その「こそ」を終(を)へ、とは、「~こそ」と表現される希求全域への遂行感がある(希求すべてが遂行され終わる)ということです。すなわち、「こそをへ(こそ終へ)→こせ」は、(希求によって)そうなること。希求が果たされること。ちなみに動詞「をへ(終へ)」には「世はをへ」のような自動化した表現もある。

「我が背子は千歳(ちとせ)五百歳(いほとせ)ありこせぬかも」(万1025:「ぬ」は完了の助動詞。否定ではありません。これは、千年も五百年もありますように、の意。「ありこそ」を終(を)へぬか、も…、ということ。希求の「こそ」に関しては、前記のように、その項)。

「この鳥も打ち止めこせね」(『古事記』歌謡2:鳴きやんでくれ)。

この「こせ」の終止形は「こそをふ→こす」になる。「散りこすなゆめ」(万1437:けして、散りたいという希求が果たされることがあるな→けして散りませんように)。

この語の語源に関しては、他者からなにかを受けることを意味する動詞「おこせ(遣せ)」(→「こち(東風)ふ(吹)かばにほひ(薫)おこせよ梅の花」(『拾遺和歌集』)に関連させて考える説が多い。しかし、「おこせ((遣せ))」は自尊表現であり、意味がおかしい。

この語が動詞であるかどうかは国語学者の分類や命名にまかせておけばよいわけですが(国語学者によっては、助動詞に分類する人も動詞に分類する人もいる)、この語はある動態が全域にわたって完成することを、果たされることを、表現するものであり、独立しては用いられない。

「ゆく蛍雲の上まで往ぬべくは(行くことができるなら)秋風吹くと雁に告げこせ」(『伊勢物語』通用段番号45)という歌がありますが、この「こせ」は「越せ」(動詞「越し」の命令形。ここでいう上記の「こせ」ではないということ)。この「告げこせ」は、告げ通り過ぎ遥か彼方へ飛んで行け、の意。告げたいという希求を果たし、という意味ではない(一般には、この「こせ」は、動詞だか助動詞だかの、上記「こせ(終止形、こす)」の命令形とされ(※下記)、秋風吹くと雁に告げてほしい、といった解釈がなされ、上記「こせ(終止形、こす)」は相手に対する希求を表現する、と言われますが、希求の命令形なるものの意味がよくわからない。蛍に対し、秋風吹くと雁に告げたくなれ、と言っているということか?。それは歌意として奇妙でしょう)。

※ 辞書でも一般にこの『伊勢物語』の歌は動詞だか助動詞だかの「こせ」(ただし辞書での項目は「こす」) に例文としてあげられている。