「こしいりあへへ(越し入り和へ経)」。「いり(入り)」は、「驚き入り」その他のような、全くその動態になることを表現するそれ。「こしいり(越し入り)」とは、まったく何かを経験経過しその経過が終わった状態になること。その状態でその何かを調和させる(和へる)ことが「こしいりあへ(越し入り和へ)→こしらへ」。その経過努力にあることが「こしいりあへへ(越し入り和へ経)→こしらへ」。たとえば、人の心、その思いや意思を越し入り(その思いや意思を経験経過しその経過が終わった状態になり)、それを和へる(自己に調和させる)場合、その人の心や思いや意思をすべて受け入れ(それを経験経過し)その人の心や思いや意思を自己に調和させる努力をする。その人の心や思いや意思を自己の心や思いや意思が叶うようにする。そうした「こしらへ(拵へ)→越し入り和へ経」は、人(他者)の心や意思などに対してのみではなく、自分の心や意思に対しても、ことに対しても、ものに対しても、行われる。

「天皇(すめらみこと)聞こしめして大きに驚きて曰(のたま)はく『朕(われ)過(あやま)ちたり』とのたまひて因(よ)りて皇后(きさき)の意(みこころ)を慰(やす)め喩(こしら)へたまふ」(『日本書紀』:怒った皇后の心情を自己に調和させる努力をした(なだめたわけです))。他者に対して努力された場合、説得して納得させたり、教え導いたり、言い聞かせてそのようにさせたり、騙すようにその気にさせたり、といった意味にもなる。

「かく折につけて、こしらへなびかしたる(琴の)音(その機に応じて、調和させ同化させる音)など、心にまかせて掻き立てたまへるは…」(『源氏物語』)。

「其(その)後、悪霊、静なる事无(な)かりければ、天皇、極(いみじ)く恐(おぢ)させ給て、『吉備大臣は広継が師也。速に彼の墓に行て、誘(こしら)へ可掍(をこつるべ)き也』と仰せ給ければ…」(『今昔物語』:「をこつる」は、相手を巧みに操作し誘導し操(あやつ)ること)。

「かねてこしらへたる事なれば、走りまはりて火をかけたり」(『義経記』:自分で自分をそうした。つまり、そういう意思が形成されていた)。

「御死骸の御上には遣戸格子を外(はづ)し置き、御跡の見えぬやうにぞこしらへける」(『義経記』:ことに関しそうした。これは、準備したり、備えたりする意味になる)。

「さて宇治の里人を召して(水車を)こしらへさせられければ」(『徒然草』:これは物に関しそうした。これは、その物自体やそれに関する社会的なことも熟知し準備した(作った)、つまり、単に、作った、というよりも、入念に作られている印象になる)。

『類聚名義抄』では「喩、唱、説、誘、論、諭、慰」などが「コシラフ」と読まれる。