「こきいでわく(此来出で沸く)」。会話をしながら、空想し「こ来(こき:こんなに、こんなに現れ)出(い)で沸(わ)く」と表現しその量の多さ、程度の激しさひどさ、次々と沸き出てくるような多さ、程度の激しさひどさ、を表現する→「野辺行く道はこきだくも(己伎太雲)繁(しじ)に荒れたるか」(万232)。
似たような表現が幾つもある。「こきばく」、「ここばく」、「ここば」、「こくばく」、「そきだく」、「そこばく」、「そこば」、「そこらく」、「ここだく」。
「こきばく→此(こ)来(き)も沸(わ)く:「来(き)」は自分の内側からの空想的発生」。
「ここばく→ここも沸(わ)く(こんなに、こんなにも沸く):「こくばく」は「いくばく」に影響されたこれの変化」。
「ここだく→ここと沸(わ)く(こんなに、こんなにと沸く)」。
「そきだく→そ来(き)と沸(わ)く:「そ」は何かを指し示す」。
「そこばく→そこも沸(わ)く(そんなにこんなにも沸く)」。「そ」による指定の意の影響でしょう。この語は平安時代には「いくばく」の意でも用いられる。「幾許 ソコハク 又 イクハクハカリ」。
「そこらく→そこら沸(わ)く」。
それぞれ「く」の無い状態でも言う(「わ」だけでも擬態として発生を表現し得る)。「白雲の絶えにし妹(いも)をあぜせろと(どうしろと)心に乗りてここば(許己婆)愛(かな)しけ」(万3517:東国の歌)。「妹(いも)が家(へ)に雪かも降ると見るまでにここだも(許許陀母)まがふ梅の花かも」(万844)。
意味はすべて同じようなもの。
「いくばく(幾何)」は語音として似たような印象がありますが、意味が異なる。
(随分前のこと(2019年11月16日)なので一応再記)
「いくばく(幾何)」の語源
「いくばかわく(幾努果枠)」。「いくばかく」のような音を経つつ「か」は無音化した。「いく(幾)」は程度や量の変動進行が動態確認的に表現されている。つまり、ものごとの進行が確認されている。「ばか(努果)」は「はか(努果)」の連濁であり、努力の成果を表す(→刈りばか:刈りとる結果たる量。「はかどる(捗る)」などの「はか」)。「はかわく(努果枠)」はその努力の成果たる(出る結果たる)「はか(努果)」に設けられた枠であり、結果として現れるものごとの限度です。「いくばかわく(幾努果枠)→いくばく」は、どれほどの物事の限度、の意。その限度の程度に感動・感嘆したりもし、失望したりもする。
「世尊、いくばくの因縁を以てか菩提(ボダイ:悟りの智慧(サンスクリット語))と心を得る」(『金光明最勝王経』:その因縁の深遠さに感銘している)。
「わが背子と二人見ませばいくばくかこの降る雪のうれしからまし」(万1685:どれほどうれしいだろう。思われるうれしさの程度の強さ・大きさに感銘している)。
「いくばくも降らぬ雨ゆゑ…」(万2840:さほど降っていない雨。起こっている事態に対する雨の少なさに失望している)。
「御随身(みズイジン)、舎人(とねり)して(石を)取りにつかはす。いくばくもなくて持て来ぬ」(『伊勢物語』これは時間的長さ(というよりもかかった日数でしょう)の限度を言っている。もっと時間がかかると思ったが簡単に持ってきた、ということでしょう)。