『古事記』歌謡10にある表現。「こをくひしひいえね(此を食ひ爲(し)干(ひ)癒えね)」。「くひ」は「き」になり、「いえ」が「ゑ」になっている。「ひ(干)」は乾燥や、なにかが衰えてなくなること・力の衰弱を表現しますが、ここでは飢え・空腹を意味する。「こを(此を)」の「こ(此)」とは歌でその前に言っているもののこと。文末の「ね」は、「告(の)らさね(お告りなさいな)」のように、なにごとかを勧める「ね」ではなく(つまり、「いえね(癒えね)」は動詞「癒(い)え」の未然形と他者の行動を勧める助詞「ね」というわけではなく)、完了の助動詞「ぬ」の已然形(つまり、「いえね(癒えね)」は動詞「癒(い)え」の連用形と助動詞「ぬ」の已然形)。「いえね(癒えね)」は、癒えるが…、癒えるものだが…、のような意味になる。「こをくひしひいえね(此を食ひ爲(し)干(ひ)癒えね)→こきしひゑね」は、此(こ)れを食ふことをして空腹は癒えるが(癒えるものだが)…、ということ。
歌の多少後にある「こきだひゑね」は、「こをくひとはひいえね(此(こ)を食(く)ひとは干(ひ)癒(い)えね)」。「ひ」は同じく飢え・空腹を意味しますが、この文末の「ね」は否定の助動詞「ず(ぬ)」の已然形(つまり、「いえ(癒え)」は動詞「いえ(癒え)」の未然形)。この「いえね(癒えね)」は、癒えないが…、のような意味になる。全体の意味は、これを「食(く)ひ」とは、食べたと言いうる状態では、干(ひ)は、飢えは、癒えないが…。
『古事記』歌謡10の当該部分は、
(原文)「… 古那美賀 那許波佐婆 多知曾婆能 微能那祁久袁 許紀志斐惠泥 宇波那理賀 那許波佐婆 伊知佐加紀 微能意富祁久袁 許紀陀斐惠泥 …」
(読み)「… こなみが なこはさば たちそばの みのなけくを こきしひいえね うはなりが なこはさば いちさかき みのおほけくを こきだひえね …」
(意味)
「こなみが」:「こなみ」は、子並み、であり、古代において、先妻と別れ後妻が入った場合、前妻が「こなみ」と表現される立場になることがある。
「なこはさば」:肴(な)乞(こ)はさば。「な(肴・菜)」は、ようするに、食事になるたべもの。「こはさば(乞はさば)」は、それを欲しがったら、ということ。
「たちそばの みのなけくを」:「たちそば」に関しては下記※(1)。「みのなけくを(実の無けくを)」。末尾の「を」は逆接を表現し、「みのなけくを(実の無けくを)」は、実の無いそれなのに、のような意。
「こきしひいえね」:上記。此(こ)れを食ふことをして空腹は癒えるが(癒えるものだが)…。
「うはなりが」:「うはなり」は、上(うへ)に実(な)る、ということですが、後妻を意味する。
「なこはさば」:肴(な)を欲しがったら。
「いちさかき みのおほけくを」:「いちさかき」に関しては下記※(2)。「みのおほけくを(実の多けくを)」。これも末尾の「を」は逆接を表現し、「みのおほけくを(実の多けくを)」は、実の多いそれなのに、のような意。
「こきだひえね」:上記。これを「食(く)ひ」とは、食べたと言いうる状態では、干(ひ)は、飢えは、癒えないが…。
ようするに、全体で言っていることは、「うはなり」はどんなにたくさん食べても満ち足りないが、「こなみ」はほんの少しで空腹は癒えるものだが…ということ。なにを言いたいかというと、時の盛りを過ぎた者は時の盛りにある者のように多くを望んだりはしないものだ、ということ。そう言って自らが仕掛けた罠に自分で落ちた兄宇迦斯(えうかし:人名)を笑っている。
※(1) 「たちそばの」:「たちそば」は、立(た)ち背(そ)穂(ほ)ら、ということか(「ら」のR音は退化している)。「そ(背)」は、逆向き、ということですが、立って逆向きの(期待に反した)穂(ほ)、とは、豊かに実って下へ向かって垂れることのない、期待外れの、実りのほとんどない、立ったままの稲穂。
※(2) 「いちさかき」:「いちさかき」は、稜威(いつ)いし。明(あか)く居(ゐ)、ということか(「つい」は「ち」になり「しあ」は「さ」になり「くゐ」は「き」になっている)。「いつ(稜威)」は神聖な権威感を表現するそれ。「いし」は程度が非常にすすんでいることを表現するシク活用形容詞(→「いし」(形シク)の項。「明(あか)く居(ゐ)」は、稲穂が豊かに輝くように実っている状態をそう表現した。それは神聖さを感じるほど美しくみごとなものであることが、稜威(いつ)いし。明(あか)く居(ゐ)→「いちさかき」。