「こゑたし(声足し)」。重ねて言い、の意。「た」の濁音化は「ゑ」のW音の影響。「こゑたし(声足し)→けだし」は、声を(何度も)重ね、言葉を(何度)もかさね、ということですが、それにより、言うことへの思いの深さが表現される。どういうことかと言うと、
「年代けだし久し」(『地蔵十輪経』)の場合、年代 声足し 久しい、年代 言葉を何度も重ね 久しい、ということですが、これは、年代 久しい、久しい、久しい…、ということであり、久しい年代への思いの深さが表現される。つまり「けだし~」は、何度も言う思いで~、ということ。つまり「こゑたし(声足し)→けだし」は、文法的には副詞と言われるわけですが、いま自分がどういう思いで、どういう心情でこれを言っているか、を表現する挿入表現なのです。つまり、「年代けだし久し」は、年代声足し久しい、と言っているわけではなく、年代は、何度も声を重ねて言うが、久しい、と言っている。言外に言っていることは、久しい、久しい、久しい…、ということ。
「是(こ)の談(ものがたりごと)、蓋(けだし)幽深(ふか)き致(むね)有(あ)らし」(『日本書紀』:是(こ)の談(ものがたりごと)幽深(ふか)き、幽深(ふか)き、幽深(ふか)き、致(むね)有(あ)らし…)。
「山守り(原文は「山主」)はけだし有りとも(妹が結った標(しめ)を)人解かめやも」(万402:(山守りが)有っても、有っても、有っても…)。
疑問が言葉を重ねられれば強い期待感とそうではなかった深い絶望感を表現する。「…松かげに出でてぞ見つるけだし君かと」(万2653:(待ちかねている)あなたかと、あなたかと、あなたかと…)。
「疑(けだし)是(これ(赤女(あかめ:赤鯛)))が(山幸彦の釣り針を)呑(の)めるか(呑んだか)」(『日本書紀』:「是(これ)」以下が何度も言われ、そういうことなのか…という思いの深さが表現される。文末の「か」は確認的詠嘆)。
「我が背子しけだし罷(まか)らば白栲(しろたへ)の袖を振らさね見つつ偲(しの)はむ」(万3725:あなたが、行ってしまうなら、行ってしまうなら、行ってしまうなら…せめて袖(そで)をふってください)。
「…藤波に けだし(氣太之)来鳴かず散らしてむかも」(万4043)は、…藤波に 声足し 来鳴かず 散らしてむかも、ということなのですが、どういうことかと言うと、藤波に 来て鳴かず、来て鳴かず、来て鳴かず散らしてしまうのか…、ということであり、これにより、ホトトギスが来て鳴かないまま藤の花が散ることへの無念さが表現される。
「…かく恋ひば 老(おい)づく吾が身 けだし(氣太志) 堪(あ)へむかも」(万4220:自己を維持できるだろうか、自己を維持できるだろうか、自己を維持できるだろうか…)。
また、「けだしく」「けだしくも」と、「けだし」が強調感を表現する形容詞のように変化し動態の思いの深さ表現する。
たとえば「宵宵(よひよひ)に我が立ち待つにけだしくも君来まさずは苦しかるべし」(万2929)という歌を「けだし」を用いずその意で、つまり重ねて言って、表現すれば「宵宵(よひよひ)に、我が立ち待つに、君来まさずは、君来まさずは、苦しかるべし」となる。「あなたが来ないのは、あなたが来ないのは辛い」と言っている。
「けだしくも逢ふやと思ひて………夕霧に 衣は沾(ぬ)れて 草枕 旅寝かもする 逢はぬ君ゆゑ」(万194:逢ふや、逢ふや、逢ふや…ということなのですが、これは挽歌であり、これにより亡くなった人への思いが表現される。※この歌は原注に、河島皇子を越智(をち)の野に葬(はぶ)りしとき(柿本人麻呂が)泊瀬部皇女に献(たてまつ)れる歌、とある)。
「いにしへに恋ふらむ鳥は霍公鳥(ほととぎし)けだしや鳴きし我が恋ふるそと」(万112:「けだしや」の「や」は疑問・疑惑を表現し、「けだしや」は、声足し「や」→や?や?や?、ということであり、深い疑惑が表現される。「けだしや鳴きし我が恋ふるそと」は、私が(古(いにしへ)を)恋ふているそれと、鳴いたか?、あの声は私が古(いにしへ)を恋ふている思いそれか?、いや私の古(いにしへ)を恋ふ思いはあんなものではない…、ということです)。この額田王(ぬかたのおほきみ)の歌の五句は一般に、原文(西本願寺版)第五句「吾恋流其騰」が「元暦校本」「金澤本」「類聚古集」「紀州本」で「吾念流碁騰」と変えられ、それに従い「わがもへるごと(吾(わ)が念(も)へ流(る)碁(ご)騰(と))」と読まれている。この「けだし」は現代語訳なるもので、ひょっとすると、もしかすると、おそらく、たぶん、といった言い方がなされており、この読みは、 「たぶん、おそらく、もしかするとか、(ホトトギスが)私が古(いにしへ)を念(おも)ふごとく鳴いたのは…」 ということか。この読みは日本語として異常ではないか? たぶん、古くから「現代語訳」をあてはめて歌意を思い、たぶん鳴いたのだ、私が古を思うごとく(ホトトギスも私の思いをわかってくれている、あるいは、ホトトギスも私と同じ思いなのだ…)、といった歌を作り、原文を書き変えもしたのでしょう。しかし「たぶん鳴いたのだ、私が古(いにしへ)を恋ふそれと」では、あれは私が古(いにしへ)を恋ふる声か?いや違うな、でもそうかも、という思いや判断は奇妙なことになる。「私の思いはあんなものではない。あんなもので私の思いは満たされない」ならわかる。