◎「けがし(穢し)」(動詞)
「うけげあし(受け気褪し)」。「う」は退化した。「うけ(受け・請け)」は帰属認容されること、何か(ものやこと)が自己に帰属し容認したこと、を確認表現しますが(→「うけ(受け・請け)」の項)、「うけげ(受け気)」は、ものやことの、人や世の中に帰属認容されている「け(気)」(ないが有るとされる何か)。つまり、「うけげ(受け気)」は、人や世の中において、そのものやことが、ないが、それが有るとされる何か。それによりそのものやことが、有る、になるなにか。つまりそのものやことの存在の価値や意味。そのものやことをそれとして存在させる価値や意味。「あし(褪し)」は「あせ(褪せ)」の他動表現。意味は、空虚化し虚無化させること。「うけげあし(受け気褪し)→けがし」は、その「うけげ(受け気)」を褪(あ)せさせること。ものやことの存在の価値や意味を空虚化し虚無化させ無意味化させること。
「是(ここ)に、兄犢鼻(たふさき)著(し)て、赭(そほに)以(もて)掌(たなうら)に塗(ぬ)り面(おもて)に塗(ぬ)り、其(そ)の弟(おとのみこと)に告(まう)して曰(まう)さく。『吾(われ)身(み)を汚(けが)すこと此(かくの)如(ごと)し…』」(『日本書紀』:「たふさき(犢鼻)」はフンドシ。「そほ(赭)」は原料は土たる赤系塗料)。
「血流れて泥と成り其(そ)の地を霑(ぬ)らし汙(ケカセル)」(『金光明最勝王経』:ここでは血が穢(けが)れになっているわけですが、これは仏教の不浄観によるものであり、生の血肉の世界がなぜ仏教では不浄になるのかというと、それが本物であれば、仏教とは物的世界とは遊離した世界の問題であり、生の血肉たる人間に無限相克が起こりその忌避により平安を得ようとするからである。これは女性の生理が穢(けが)れになることの基因にはなっているでしょう(→「けがれ(穢れ)」の項))。
「『返しはつかうまつりけがさじ。…』」(『枕草子』:歌の返しをしその歌の名誉を損(そこ)なうようなことはいたしません、ということ)。
「瀆 ……ケカス(ル)」「塵 チリ ケカス」「噣 ケカス アチハフ」(『類聚名義抄』:「噣」は『説文』に「喙(くちばし)也」とされる字ですが、ようするに、啄(ついば)むように味見をすることが「アチハフ」であり(食べ物を、口をつけたり手をつけたりし)「ケカス」か)。「汚 ケカス 汙同」(『伊呂波字類抄』:『伊呂波字類抄』には「けがす」はあるが「けがる」はない。「けがし」は「汙」と書いたりもする。この字は「汗(あせ)」に似ていますがそれではなく、「汚(ヲ)」と同字)。
◎「けがれ(穢れ)」(動詞)
「けがし」の自動表現。「よごし(汚し:他)・よごれ(汚れ:自)」、「むし(蒸し:他)」「むれ(蒸れ:自)」のような変化。意味性や価値性が減衰・喪失すること(→「けがし(穢し)」の項・上記)。
「定(ヂャウ)の水濁(にご)り穢(けがるれ)ば偏知の月現はれ不(ず)」(『東大寺諷誦文』:この「定(ヂャウ)」は禅定ということでしょう)。人の死にかかわることが「けがれ」になるのは死には人の意味性や価値性を喪失させる根源的な不安が感じられるから。
「かくや姫のこの世の濁りにも穢(けが)れず…」(『源氏物語』)。
「『昨夜より穢れさせたまひて、(寺に参詣できないことが)いと口惜しきことを思し嘆くめりしに…』」(『源氏物語』:この「けがれ(穢れ)」は生理があったこと。生理がけがれになるのは、けがれとして身をつつしみ、安静を得るということなのかもしれない)。
◎「けがらひ(穢らひ)」(動詞)
「けがれはひ(穢れ這ひ)」。「けがれ(穢れ)」の情況になること。「けがれ(穢れ)」が感覚的に触れる・感じられる、情況になること。
「穢らひたる人とて、 立ちながら追ひ返しつ」(『源氏物語』:家の中へは入れず、立って話をしただけで帰した、ということですが、この「穢(けが)らひたる人」とは、葬儀の手伝いに行っていた人)。
◎「けがらはし(穢らはし)」(形シク)
「けがれはひあし(穢れ這ひ悪し)」。穢(けが)れが情況化・環境として一般化し否定、さらには嫌悪が感じられることを表現する。
「『吾(われ)、前(さき)に不須也凶目(いなしこめき)汚穢(きたな)き處(ところ)に到(いた)る。故(かれ)、吾(わが)身(み)の濁穢(けがらはしきもの)を滌(あら)ひ去(う)てむ』」(『日本書紀』)。
「穢惡伎疫鬼能 處處村村爾蔵里隠布留乎波…」(『延喜式』「儺祭詞(ナのまつりのことば)」:「けがらはしき えやみの かみの ところどころむらむらに こもり かくらふるをば…」)。