「くるよへへ(来る夜へ経)」。くるよへへぬ(来る夜へ経ぬ)→くれぬ(暮れた)、くるよへへむ(来る夜へ経む)→くれむ(暮れるだろう)、といった表現から、「くれ(暮れ)」が動詞化した。「くるよへへ(来る夜へ経)→くれ」は、夜へ進行している、の意。「日(ひ:太陽)、くれ」(この、日(ひ)、は、一日(イチニチ)、という意味ではない。太陽、の意)という表現が、日(ひ)の進行状態が夜を感じさせる状態になっていることを表現する。一日ごとの時間的経過も表現し、日月の経過も意味する→「年のくれ(暮れ)」。つまり、自然現象たる時間的経過を、それも、終末へ近づく時間的経過を、表現する。「くれの夏」は夏の終わり。
「途方にくれ」は、自然界の現象が社会的に表現され、方向・方法・手段においてもはや何も見えない夜に向かうしかない状態になる。「行く末にくれ」という表現もある。「思案にくれ」は思案においてそうなる。「目くれ」は、「烟(けむり)に目暮(クレ)て」(『太平記』:煙で見えなくなり)のような表現もありますが、社会的な見通しとして、何も見えなくなる状態になっていき、どうしたらよいのかわからなくなる、という意味でも言う→「いかにしなし奉り給はんとするにかあらむと思ふに、目くるる心地して」(『落窪物語』)。「金に目がくれ」は、金によって何も見えないような状態になる。「涙にくれ」は、そのどうしたらよいかわからない状態は涙があふれるような心情になるものであり、その涙で、いま自分がいるその環境も正確に見えない→「涙にくれて筆のたてどもおぼえねども…」(『平家物語』:「筆のたてど(立て処)」は、自分がいま筆をおいて書いている(紙の)その場所、そして筆の運び)。この「途方にくれ」以下の「くれ」は「眩れ」とも書く。