「くれゐゆゆし(暮れ居ゆゆし)」。日暮れに居ることがゆゆしいわけではありません。「くれ(暮れ)」という言葉は光量が減少していく情況を表現しそれは時間経過も伴う。「くれゐゆゆし(暮れ居ゆゆし)→くるし」は、原意としては、その光量の減少時間経過に居ること、あること、がゆゆしい。これは、心情的に、体内情況的に、光量が減少していくような、ただ闇へ入っていくような、情況が、尋常ではないことを、それが普遍的経験が動揺するようなものであること(→「ゆゆし(由由し)」)を、表明する。
また、「くれ(暮れ)」は方向・方法・手段においてもはや何も見えない夜に向かうしかない状態になる→どうしたらよいかわからない、という意味も表現し、これが、どうしたら動態が進むのか分からない、という、動態に障害感があることも表現する→「見苦しい」「聞き苦しい」「息が苦しい」。「苦しい言い訳」は言い訳としての通用性に障害感がある。
「くるし(苦し)」を語幹とする「くるしみ(苦しみ)」(四段活用)「くるしび(苦しび)」(上二段活用)という動詞もある。
「吾が背子に恋ふれば苦し…」(万964:どうしたらよいのかわからない不安な思いになる)。
「難波潟(なにはがた)潮干(しほひ)なありそね沈みにし妹が姿を見まく苦しも」(万229:見るであろうことが夜へ向かっていくような思いになる。これは、ある女性の屍を見ての歌。事情はよくわかりませんが、入水自殺なのかもしれない)。
「あり衣のさゑさゑしづみ家の妹に物言はず来にて思ひ苦しも(具流之母)」(万3481:思うことに障害感があるわけではない。苦しい思いがする、思って苦しい、ということ。「さゑさゑしづみ」は、いろいろと周囲がザワザワとし落ち着いた対応もできず、の意。「さゐさゐしづみ」とも言う。万503に同じような歌がある)。
「苦しくもふりくる雨か神(みわ)が崎(さき)狭野(さの)のわたりに家もあらなくに」(万265:どうしたらよいかわからず途方にくれさせるような雨。狭野のわたり(あたり:渡り(渡し場)とする説もある)に家(いへ)ということでもないのに(私の家は遠くはなれているのに)。この歌は一般に、狭野のあたりに家はないのに、と、雨宿りする家をさがしている歌と解されている。「あらなくに」に関しては下記※)。
「旅と言へば言にぞやすきすべもなく苦しき旅も言にまさめやも」(万3763:旅と言葉で言うのはなんの造作もないことだ、(しかし)なすすべもなく苦しい旅も言(こと)に言(こと)を実践させるだろうか(いや、させることはできない(それは言葉にならない)。ここでのこの歌の意味解釈は「まし(増し)」という動詞の意味理解が影響する(つまり、旅が言(こと)に増さないことは言(こと)が旅に増すことは意味しない。旅が言(こと)に増していれば(力や権威が優越していれば)、旅には (言(こと)に絶対命令を発するように) 言(こと)に自己を実践させ自己を表現させることができる(それは言葉になる))。一般にこの最後の部分「言にまさめやも」は、旅よりほかにあらわす言葉もない、や、旅という言葉よりほかにいい表現があろうか、といった解釈がなされている。旅は言葉に優(まさ)るだろうか(いや優らない)→苦しい旅も「たび(旅)」と言うしかない、ということか)。
「…とて、何くれとのたまふも、似げなく(その人に似合わず)、人や見つけむと苦しきを、女はさも思ひたらず(そんなことも思わない)」(『源氏物語』:人が見るのではないかと、事態への対応に障害感がある(対応に困る))。
「くるしうない、近(ちこ)う寄れ」(近くに来ることに障害感はない)。
「くるしい噂を、もし丹さんが聞いたなら…」(「人情本」:聞き苦しい噂ということ) 。
※ 万265の「あらなくに」:「あらなくに」は「あらぬ(有らぬ)」(動詞「あり(有り)」と否定の助動詞「ぬ」(連体形))のク語法であり、無く、無い状態に、ということですが、この「あらなくに」は、「Aにあらなくに」や「Aもあらなくに」と言われる。「Aにあらなくに」→「見とも飽くべき浦にあらなくに」(万4037:見ても飽くような浦であることはない、そんな浦です)。「Aもあらなくに」→「君もあらなくに」(万154:君(大君)もあることはないのに(いらっしゃらないのに))。この「に」は客観的になにかを認め、「も」は主観的に何かを思っている。