「きえゐはし(消え居愛し)」。「きえゐ」が「けゐ」のような音を経つつ「く」になっている。「はし(愛し)」の「は」は感嘆。何かに感嘆している。「きえゐ(消え異居)」は、その「ゐ(居):あり方」が消えてしまいそうであること。「きえゐはし(消え居愛し)→くはし」は、ふと、自分がいま見ているそれ、体験しているそれが現実に有るとは思えなくなる、ということ。それを否定したい思いによってではなく、それに心奪われ自我が奪われることによって。つまり、「くはし(麗し・詳し)」は、自分にはとらえられない、把握できない、何かに心ひかれ感嘆している。古くは、自然や、人に(たとえば男が自分にはとらえられないような価値を感じる女に)感嘆したりしました。やがて、ある事柄に関し知的経験のない人がある人の豊かな知にめぐり会ったとき、その人はそれを「くはし(詳し)」と表現するようになる。書き物や絵などでそれにめぐりあったとき、その書き物や絵はそれに関し「くはしい」。つまり、自分にはとらえられない、把握できない、何かに心ひかれ感嘆する「くはし」が知的な認識におけるそれを、未知を知に変える力を備えたそれへの感嘆を、情報の精緻さ精密さを、表現するようになる。

『万葉集』での「くはし」の漢字表記は「麗・妙・細・美麗」といった書き方がなされる。現代ではたいてい「詳し」と書かれますが、『類聚名義抄』や『和玉篇』(室町時代)の「詳」にも「クハシ」の読みは無い。19世紀の『節用集』でも「精 クワシ」「委 同」(『節用集(伊勢本)』(1809年))。「詳(シャウ)」は『説文』に「審議也」とされ『廣韻』に「佯 詐也,或作詳」とされるような字。「詳 ツハヒラカニ イツハル アキラカニ」(『類聚名義抄』)。

 

「くはしめをありときこして(麗し女をありと聞こして)」(『古事記』歌謡2)。

「青柳(あをやぎ)の糸のくはしさ春風に…」(万1851)。

「絺縭 ……上…細葛布……下…平緌也…久波志支葛衣」(『新撰字鏡』)。

「昔より来(このかた)未(いま)だ嘗(かつ)て是(こ)の如く微妙(くはしき)法(のり)を聞くことを得ず」(『日本書紀』)。

「委 ……クハシ…ウルハシ…ツマヒラカニ」(『類聚名義抄』)。「妙 …タヘナリ クワシ」(『和玉篇』)。

「しかれども我若年にして人情に精(くは)しからず」(「談義本」・江戸時代)。