◎「くたばり」(動詞)の語源

「くたば(くた葉)」の動詞化。「くたば(くた葉)」の状態になること。「くた」は「くたくた」の項(10月15日)。「自己の構成を維持する力が喪失し(あるいは極めて弱まり構成の崩壊が始まり)外力と重力のままにその形態が動いてしまうことを表現する擬態」です。「くたば(くた葉)」は、そうした「くた」の状態になっている葉。「くたばり(くた葉り)」は、(草の)葉が萎(しを)れて「くたくた」となってしまったようになってしまうこと。元来は極度に疲労、憔悴することを表現しましたが、後には、死亡することを言う俗語的な、敬いを欠いた表現にもなっている。人の死をそこらの草がクタクタとなったように表現することは敬いを欠いているということです。

「憔悴 ウレフ クタク オトロフ カシケタリ シホム ツヒユ クタハル」(『類聚名義抄』:『類聚名義抄』(1000年代末ごろか)にあるということは、この語は、たとえば江戸時代の戯作や歌舞伎の世界などで、生まれた語ではないということです)。

「そなたが今、頓死してくたばらふがかまはぬぞゑ」(「浄瑠璃」)。

 

◎「くたびれ(草臥れ)」(動詞)

「くたはびれ(くた葉びれ)」。「くた」は「くたくた」のそれ→「くたくた」の項。これは擬態表現になっている。構成の崩壊(構成する力の衰え)が始まっていることを表現します。「びれ」は「悪びれ」その他の「びれ」です→「びれ」の項。要するに、「くたはびれ(くた葉びれ)→くたびれ」は、「くた」としてしまった(草の)葉のような状態になってしまうことです。「くたばり」(上記)の元来の意味に似ている(「くたばり」よりも表現は多少客観的ですが)。人の構成力衰化を言いますが、比喩的に物に関しても言い、動態維持の構成力衰化も言う→「待ちくたびれる」。「一日中歩き回ってくたびれる」。「くたびれた背広」(これは物)。

「…(俊寛)僧都は餘りにくたびれて、夜も晝(ひる)も悲(かなしみ)の涙に沈み、神佛にも祈らず…岩のはざま、苔の上に倒れ卧(ふし)て居たりけるが…」(『源平盛衰記』「康頼熊野詣」:これは島流しにされていた三人のうち俊寛僧都だけ赦免されなかったという話。この状態のところへ赦免状をもった六波羅の使者がやってくる。語源とは関係ありませんが、この続きをもう少し書きましょうか。「(赦免状に)『……』とは有(あり)けれ供(ども)、俊寛僧都と云(いふ)四(よっつ)の文字こそ無(なか)りけれ。執行(シュギャウ:僧務長。俊寛は法勝寺の執行)は(赦免の)御教書取上(とりあげ)て、ひろげつ巻(まき)つ披(ひら)いつ…かかねばなしかは有べき(書いていないから無いなどということはあるのか……(ある))なれば…頓(やが)て伏倒(ふしたふ)れ絶入(たえいり)けるこそ無慙(ムザン)なれ。良(やや)有(ありて)起きあがりては、血の涙を流しける。…………………………僧都に暇(いとま)乞(こひ)。舩(ふね)にのり。纜(ともづな)を解(とき)て漕(こぎ)出(いで)けり。責(せめて)の事に僧都は、漕行(こぎゆく)舟の舷(ふなはた)に取付(とりつき)て、一町餘(あまり)出たれども、浦鹽(うらしほ)口に入(いり)ければ……渚に帰りて倒れ卧(ふ)し、足ずりしておめきけり。稚子(いとけなきこ)の、母に慕(したひ)て泣かなしむが如也(ごとくなり)」)。