この「き」は、K音の交感による気づき、理性の(自覚作用の)自動発動、動態(ものごと・現象)の対象化、記憶化、そしてそのI音化によりその進行が表現され、対象との交感が進行する。その「き」が自主的動態として発動すればアクセントはあがり「き(牙)」のそれやこの「きり(切り)」のそれになり、「きり(切り)」、すなわち、その「き」が活用語尾R音により何かに関し人がその「き」の情況にあることが表現されるということは、その人は何かに関し理性の(自覚作用の)自動発動情況、動態(ものごと・現象)の対象化情況、記憶化情況、そしてそのI音化によりその進行情況にあるということであり、その人はその何かに関し理性的な自覚の有無、動態(ものごと・現象)の対象化の有無、すなわちその存否の有無の情況にあるということであり、すなわち「きり(切り)」の対象との交感進行は対象たるものやことの有ると無しの、存在と不存在の、峻別情況進行を表現する。人は「きり(切り)」という動態にあるときなにものかやなにごとかの存在・不存在が現れる情況にある。たとえば、「木をきり」の場合、「き(木)」が「き(木)」になる。一の木が二の木になる。「き(木)」は二つになる。それは切断されたのです。ものだけではなく、ことの切断。社会的切断も表現する(「縁をきる」)。時間的切断は時間進行の限界を画す(「期限をきる」)。こと(動態)の切断はそれがこと(動態)の存否を決する完結的最終的なことであることを表現し(「ものごとをやりきる」、「言ひきる」、「晴れきった青空」「分かりきったこと」、「張り切って」「思い切って」)、存否の限界を超えた切断的消失も表現し(「それっきりなにもない」、「寝たきり」、「水気をきる」、「記録は一分(イップン)をきる」、「値段は千円をきる」)、それが存否を決するような効果を果たすことであることも表現する(「きり札(ふだ)」、「楫(かぢ)をきる」、「(歌舞伎で)見栄(みえ)をきる」、「しらをきる」(「しら」に関しては「しら(常人態)」の項))。

「柳こそきれ(伎禮)ば生えすれ…」(万3491)。