「ぎゃうそふハン(「ぎゃう」「そふ」反)」。ぎゃそわん、のような音を経つつ、W音は退化しつつ「そわ」は「さ」になり、ぎゃうさん、になった。「「ぎゃう」「そふ」反」とはどういうことかというと、「ぎゃう」と「そふ」の反切ということであり、これは「ごふ」になり、「ごふ」とは「業」です。「業」は呉音「ゴフ」漢音「ゲフ」であり、「ゲフ(業)」は一般用語になりますが(→「職業(ショクゲフ)」「業務(ゲフム)」)、「ゴフ(業)」は仏教用語になる。つまり、「ぎゃうさん」とは、基本的には、(仏教用語たる)業(ゴフ)、ということ。この語が「ぎゃうさんに」や「ぎゃうさんな」という言い方で、業(ゴフ)にとらわれたような、あくどさを感じるような、過剰なものやことであることを表現した(つまり、「ぎゃうさんに」や「ぎゃうさんな」は、原意としては、「業(ゴフ)に」や「業(ゴフ)な」と言っているということ(※下記))。ただし、時代がくだるにつれ、「仰山(山を仰(あふ)ぐ)」という慣用的表記の影響もあるのでしょう、助詞の「に」は言われず、ただ「ぎゃうさん」が動態に過剰な印象があること、量が通常思われる量よりも多かったりものごとの程度が通常思われるよりもすすんでいたり、を表現する挿入句のような状態になります→「ぎゃうさん有る」。
「ぎゃうさん」という仮名表記に関しては、古い表記には「げうさん」と書かれたり、「業山」と書くべきかとも言われ「業山」の仮名表記は「げふさん」であり、『日葡辞書』には「ぎょーさん」と読める表記がなされ…といったことが起こっているわけですが、語の成り立ちとしては、ここでは「ぎゃう」と書きましたが、子音G音があればそれでよく、どのような語でも、さらにはそのような漢語はなくとも、問題はない。上に「「ぎゃう」「そふ」反」と書いた「そふ」にしても、そのような音の漢語がなかったとしても問題ない。ここで「ぎゃう」と書いたのは、後の「仰(ギャウ)」の影響ではなく、「行(ギャウ):「行」の呉音」を意識してのことです(そのようにして生まれている語なのかもしれません。「行(ギャウ)」(人のおこなひやふるまひ)が「業(ゴフ)」(煩悩に生きる人々の因果の因となる業(わざ))になっているということ)。漢字表記も、後には習慣的に「仰山」が最も普通になっていきますが、他の表記もあります。
「『アヽ親父様、なんぞと思へば仰山な、私(わし)ら女夫(めをと)がなに借銭しませう…』」(「浄瑠璃」『心中重井筒(しんぢうかさねゐづつ)』:なぜ借金などした、なんのための金だ、と責めるように言った親に対し、言われた者がその物言いを「ぎゃうさん」と表現している。猜疑心にかられ過剰なもの言いをしているということ)。
「Guiôsan ……. Guiô sanni yu(ぎょうさんに言(ゆ)う). Encarecer demasiadamente las cosas」(『日葡辞書』:「Encarecer demasiadamente las cosas」は、ものごとを過剰に高価にする、のような意。大げさに言う、欲にかられ過剰なもの言いをする、というような意味でしょう。業(ゴフ)に囚われたように表現するわけです。ここに書かれる原文は、原文のロングエスが「s」になっていたりし、厳密に原文通りではありません)。
「澆山に見事な奥様や内方をもたれても」(「浮世草子」『人倫糸屑』:「澆山」は、本人は、ぎゃうさん、と書いているつもりかもしれませんが、厳密には「げうさん」。「澆」は『廣韻』に「沃也、薄也」とされる字。「沃(ヨク)」は地味が肥えていたりすることを意味しますが、ここではそういう意味でしょう)。
「ぎゃうさんなものは傾城の他出なり」(「雑俳」:たとえば吉原の、太夫の他出が過剰に見栄をきった大げさなものになっているということ)。
「ぎゃうさんな高声(たかごゑ)」。「ぎゃうさんな酒飲み」。「こと(事)もぎゃうさんにあって」。「ぎゃうさんな元気」。「ぎょうさん古い下帯」。「(麦を)ぎゃうさん積んで」。
※ 「業(ゴフ)」は、筋肉や骨であれ、脳であれ、活動であり、人(ひと)は、そして自分は、その業(ゴフ)の因であり果であり(そして、自分は(空間的時間的に)個別であり具象であり、人(ひと)は(空間的時間的に)一般であり抽象であり)、「業(ゴフ)」にとらわれていることで様々な不安や苦が起こり、「業(ゴフ)」にとらわれていることは因果から解放された安らぎや安堵はありえない、という状態になり、「業(ゴフ)」にとらわれていることはあるべきことではなく、あるべきではない、悪しきこととなります。それによって業(活動)のわざとらしさ、それが障(さは)り:不幸の因たる障害、になること、をなくしたいということでしょう。業(活動)の対自化や因果の矛盾は仏教で突然起こっているわけではなく、その基底にあるインド方面のものごとの考え方にあります(ヴェーダだのウパニシャッドだのと言われるそれ)。
念のために言えば、言語活動も「業(ゴフ): कर्मन्・カルマ」です。ですからこのサイトもあります。