◎「きこしめし(聞こし召し)」(動詞)

「きこし(聞こし)」に「めし(召し)」がつけられている。「きこし(聞こし)」は効果が発生すること(→「きこし(聞こし)」の項・7月30日昨日)。「めし(召し)」は動詞「み(見)」の尊敬表現であり(下記※)、尊敬表現せずに言えば「み(見)」。この「「み(見)」という動態は視覚刺激を受ける印象が強いですが、その動態の本質は意思動態であり、それが視覚刺激を受けること、目により光を受容することを意味する印象が強いのは日常生活においてその影響が非常に強く広範だからです。「み(見)」という動態は視覚刺激を受けることだけを意味するわけではなく、そこには知的生命体たる人の自然生態として意思動態が作用しており、知覚認知したものやことの意味を知ろうとする動態がそこには働いている。すなわち、そうした、知り、判断する動態が「み(見)」によって表現される…」(「かむかへ(考へ)」の項より)。すなわち、「きこしめし(聞こし召し)」は、効果が発生し意思動態があること(その尊敬表現:尊敬表現をせずに語を構成する動態だけ表現すれば、効(き)き生(お)ひ見(み))。

その効果発生が人からなにごとかの情報を聞くことによってあれば意味は「きく(聞く)」(その尊敬表現)とあまり変わらなくなります→「きこしめす御心まどひ、何ごとも思しめしわかれず…」(『源氏物語』:更衣の死をお聞きになった…、ということ。かといって、聞(き)き生(お)ほし、ではない。それはあり得ない。効(き)き生(お)ほし。死を知ったことの効果が生じた)。

その意思動態が儀式をおこなうことである場合もある→「其(そ)の大嘗(おほにへ)聞看(きこしめす)殿(との)に屎(くそ)麻理(まり:放り)散(ち)らしき」(『古事記』:天照大神に「大嘗(おほにへ)」の効果が生じているわけですが、新穀を食べもするでしょうけれど、ただそれだけではなく、神が神聖な儀式動態にある)。

効果が発生しその意思動態が食べ物に示されれば、食べる、という意味にもなる→「穢(きたな)き所の物きこしめしたれば、御心悪しからん物ぞ」(『竹取物語』:これは飲食したことを、きこしめし、と言っている。飲んだり食べたりしたことを、(「穢(きたな)き所の物」の)効果が生じた、と表現しているわけです)。

「『何地(いづこ)に坐(ま)さば、平(たひ)らけく天(あめ)の下(した)の政(まつりごと)を聞看(きこしめさむ)。猶(なほ)東(ひがし)に行(い)かむ』」(『古事記』:この「おほし(生ほし)」は、「おひ(生ひ)」の尊敬表現ではなく、使役型他動表現→「きこし(聞こし)」の項。すなわち、効果を発生させなさる、ということであり、政(まつりごと)の効果を発生させる意思動態がある、とは、統治する、ということ)。

 

※ 動詞「き(着)」も、尊敬の助動詞「し」に接続する場合、その情況化・A音化の要請とI音の動態保存の要請の妥協としてE音化し「けし(着し)」になりますが、動詞「み(見)」も同じ理由でE音化し「めし(見し:召し)」になる。

 

◎「きこしをし(聞こし食し)」という表現もあります。この「をし(食し)」は動詞「ゐ(居)」の尊敬表現であり、「ゐ(居)」は存在動態であり、意思を現実化させる、現実的・積極的意思動態を表現し、意思を現実化させる積極的なものではありますが(「きこしめし(聞こし召し)」における「み(見)」より「きこしをし(聞こし食し)」における「ゐ(居)」の方が意思動態の意思の現実化として積極的ということ)、意味は「きこしめし(聞こし召し)」とそれほど変わりません。その積極的な意思動態が飲食物に示されれば、食べる、や、飲む、といった意味になり→「やすみしし 我(わ)ご大君(おほきみ) 高照(たかて)らす 日(ひ)の皇子(みこ)の きこしをす 御食(みけ)つ国(くに) 神風(かむかぜ)の 伊勢(いせ)の国(くに)は…」(万3234:これは食べることと治めることを兼ねたような「きこしをし」)、社会や国であれば、治める、統治する、といった意味になる→「天皇(おほきみ)の 遠の朝(みかど)と しらぬひ 筑紫(つくし)の国(くに)は 敵(あた)守(まも)る おさへの城(き)ぞと 聞(き)こし食(を)す 四方(よも)の国(くに)には…」(万4331)。