◎「きこえさせ(聞こえさせ)」

聴覚刺激の自然作用のような「きこえ(聞こえ)」は普通にあり、「~せ」や「~させ」が使役型他動表現を意味し(→「いかせ(行かせ)」「たべさせ(食べさせ)」)、「きこえさせ(聞こえさせ)」が聴覚刺激の自然作用を得させる(「あいつに音楽を聞こえさせる(あいつが音楽を自然に聞く状態にする)」)を意味する表現ももちろん普通にあります。しかし、そのほかに、古くは、尊敬表現の「きこえさせ(聞くこえさせ)」もあった。その場合の「きこえ(聞こえ)」はなんらかの作用があり効果が生じることを表現する→「きこえ(聞こえ)」の項(7月28日)。「させ」は(「さ」の)A音化により情況化した動態の動態経過を表現する(それにより表現が客観的な情況表現となり、それにより表現が間接的となる)尊敬表現です。つまり、尊敬表現たる「きこえさせ(聞こえさせ)」は尊敬表現「きこえ(聞こえ)」のさらなる尊敬表現。言っていることの意味は、基本的に、「きこえ(聞こえ)」と変わりません(そこに「いみ(忌み・斎み)」や敬いの念がさらに増します)。

「きこえさし」という四段活用の表現もありますが、この「さし」は障害感が生じる「障し」であり、この「きこえさし」は途中で言いやめたりすること(現代風に普通にいえば「言ひさし」)。

 

「いと切にきこえさすべきことありて…」(『大和物語』:お伝えしたいことがあって)。

「いとかたはらいたけれど、頼みきこえさするままに」(『落窪物語』:胸が痛むような思いがするが、あなたを頼みにしていることの効果があなたに生(お)ふままに)。

「待ちつけきこえさせむことのまばゆければ…」(『源氏物語』:この「つけ」は、普段からそうなっている、それが常態の、のようなそれ→「親のおはしける時より使ひつけたるわらはの」(『落窪物語』)。この「待ちつけきこえさせむ」は「きこえ(聞こえ)」の項で言った「動詞連用形(動態)きこえ」ですが(→「竹の中より見つけきこえたりしかど」(『竹取物語』:「見つけ」という効果が(かぐやに)発生する))、待っていることが常態になっているという効果が(源氏に)生ふことが(そう思われることが)まばゆいので(そうした事態を直視できないような(気恥ずかしい)思いがするので))。

「いつもおろかに思ひきこえさせざりし御すまひなれど、まかでしよりは、いとどめづらかなるさまになん思ひいできこえさする」(『蜻蛉日記』:いつも、(御すまひを)粗略・粗末に思ひ効果作用を生じさせることなどなかった(いつも祖力・粗末とは思っていなかったが、退出してから、一層めづらかに思いだされる))。

 

◎「きこえさせたまひ(聞こえさせ給ひ)」

「きこえさせ(聞こえさせ)」にさらに「たまふ(給ふ)」が加わった。「たまひ(給ひ)」という動詞は何かを発生させることが意味の基本になっています。つまり、「きこえさせたまふ(聞こえさせ給ふ)」は「きこえさせ(聞こえさせ)」という動態に発生感を生じさせること。それにより表現はさらに間接的になり(そうした、ではなく、そういうことが発生した、と表現することにより表現はさらに間接的になり)尊敬表現の尊敬性はさらに厚くなる。「きこえ(聞こえ)」が、効果作用があることを表現し動態を直接に言わない間接表現たる尊敬表現ですが、それが「させ」でさらに間接的に、それがさらに「たまひ(給ひ)」で間接的に表現され尊敬表現が三重になっているわけです。表現の間接性、それゆえの尊敬表現性、が増しはしても、言っていることの基本は「きこえ(聞こえ)」です(下記※)。現実的に意味はありませんが、「きこえさせたまふ(聞こえさせ給ふ)」を基本にある意味に忠実に表現すれば、効果の発生を得ることの客観的な現れ発生感を生じさせること。

「よろづの事をきこえさせたまへど」(『源氏物語』:尊敬表現をしなければ「いろいろなことを言うが」)。

「母女御もそひきこえさせたまひてまゐりたまへり」(『源氏物語』:尊敬表現をしなければ「母の女御も同伴して参内した」)。

※ この「きこえ(聞こえ)」は尊敬表現ですが、現代でも通常の、音響刺激を受ける意味での「きこえ(聞こえ)」に、人に何かをさせる、という意味の使役の「~させ」がつき、それに「たまひ(給ひ)」がついた「きこえさせたまひ(聞こえさせ給ひ)」、人に聞こえさせることを、人を聞ける状態にすることを、なさり、という表現ももちろん別に可能です。それがどういう意味の「きこえさせたまひ」なのかはそれが用いられている情況によって変わります。