「ききゆおひえ(聞き(効き)ゆ生ひ得)」。「きき(聞き・効き)」はその項参照(7月26日)。「ゆ」は経験経過を表現する助詞。この場合は事象経過域を表現する。「ききゆ(聞きゆ・効きゆ)」は、効果(「きき」)を経過し、効果(「きき」)によって、ということ。「ききゆおひえ(聞き(効き)ゆ生ひ得)→きこえ」は、効果(「きき」)による、効果(「きき」)を受けての、生ひ(育ち)が受動されている(得られている)、ということ。何かに影響され、何かの影響を受け、それが作用し効果があり、それにより自生的に何かが生(お)ひ育つような動態になります。とりわけ、そこには音の、とりわけ言語の、効果が発生している。それが「きこえ(聞こえ)」。
この言葉は、後世ではもっぱら音響の効果が自然発生することを表現しますが (→「声が聞こえる」。この意味での「きこえ(聞こえ)」ももちろん古くからありますが(→「ひと声だにもいまだきこえず」(万4209)))、過去には、敬いを感じるような相手(B)に(言語主体たる本人が)何かを言うことも表現した(つまり、「いひ(言ひ)」の謙譲表現です)。「Bがきこえ」ではなく、「AがBにきこえ」が「AがBに言ひ」を意味した。「AがBに言ひ」を「AがBにきこえ」と表現した。さらには、「言ひ」以外の、文をおくることその他などもそう表現した(相手は、聴覚刺激を受けたのではなく、効果が発生した)。
この尊敬表現たる「きこえ(聞こえ)」は、「ききおひえ→きこえ」が「効き生ひ得」、すなわち効果の発生を表現し、その効果の発生が、効果発生の主体・相手(B)の側からではなく、それに対する客観的な立場の側から表現され、「きこえ」が客観的主体の自然現象のような自動表現となり、これが、Bに対し何かの影響を与えた(たとえば、何かを言った)ことを表現せずにそれを表現する(つまり、効果があったことが表現され、効果があったということは、そうさせたなにごとかがあったことは知られる)。そう表現することで、Bに何かをしたことを表現せず表現する、ということでしょう。つまり、Bに何かすることを直接に表現せず表現する間接的な表現であり、表現をBに触れさせないこうした表現の間接性がBへの「いみ(忌み・斎み)」や敬ひの表現となる。そうした、Bに言語表現を直接触れさせる表現を避けた表現の間接性が尊敬表現と言われる表現の本質です(言うことの、言っている相手への尊敬表現(言うこと、言うということ、を尊敬表現している)ということは、言うことの、言っている主体の謙譲表現(言うこと、言うということ、を謙譲表現している)です)。
つまり、自発的聴覚効果、音響の自然自発的効果たる「きこえ(聞こえ)」はもちろん別にありますが、尊敬表現たる「きこえ(聞こえ)」は「効こえ」、すなわち効果発生を表現し、その表現はAに影響を与えていることを表現することを避けた間接的な表現、ということです(ちなみに、「きき(聞き)」の一般的な自発表現、自発的聴覚効果表現は「きかれ(聞かれ)」であり、この、いうなれば普通の、自発表現は「きこえ(聞こえ)」とは別にもちろんあります)。
そうした、尊敬表現がなされるBに影響を与える行為は言語活動、すなわち何かを言うこと(つまり、「きこえ(聞こえ)」が「いひ(言ひ)」を意味する) が主ですが、その他、文(ふみ)をとどけることや、さらには、一般の贈り物までそれを届けることを「きこえ」と表現したりもします(つまり、音響刺激や聴覚刺激を受けることだけを意味するわけではない)。
また、「動詞連用形(動態)+きこえ」という表現により、その動態の効果を発生させる、という動態効果を間接化した表現になり、この表現の間接性はその動態の効果が発生する主体への尊敬表現(その主体を敬う表現)になる(この「動態」は音響・声・言語に関するものであることが多いですが→「ひと声催しきこえよ」(『源氏物語』:ひと声、促すことをせよ。急(せ)かせ))、それだけとはかぎりません→「竹の中より見つけきこえたりしかど」(『竹取物語』)。
「きこえいなぶ(きこえ否ぶ)」(言って断る。辞退する)、「きこえうけたまわる(きこえ承る)」(効果の発声を得、承る。うけたまわる、の謙譲表現)、「きこえそこなふ(きこえ損なふ)」(言って(人を)そこなう。人を中傷したりする)といった、「きこえ~」(「きこえ+動詞」)、といった表現も多種あります。「きこえあげ」、「きこえあひ」、「きこえあはせ」、「きこえいで」、「きこえいだし」、「きこえいなび」、「きこえおき」、「きこえかかり」、「きこえかけ」、「きこえかはし」、「きこえかへし」、「きこえかよひ」、「きこえごち」(わざと人にきかせるような独り言のような言動をする)、「きこえさし」、「きこえさせ」、「きこえつき」、「きこえつぎ」、「きこえなし」、「きこえやり」など。他にも多い(これらの例は、「きこえさせ」以外、他は「きこえ」を「言ひ」と言い変えてもなんとなく意味は取れる)。
(以下全て尊敬表現たる「きこえ(聞こえ)」)
「『今日の試楽は青海波に事みな尽きぬ。いかが見給ひつる』ときこえ給へば…」(『源氏物語』:~と申し上げたら) 。
「(貴者に)きこえまほしげなること」(『源氏物語』:貴者における効果の発生を得たそうなこと、貴者に効果を発生させたいこと→貴者に言いたいこと)。
「暇(いとま)きこゆれども」(『宇津保物語』:暇(いとま)を申し上げる。そこから去ることを承諾してもらおうとする)。
「御文(ふみ)もきこえ給はず」(『源氏物語』:文(ふみ)の効果の発生の得も給(たまはら)ず(厳密に言うと、文(ふみ)の効果の発生の得の発生も無い(「たまひ(給ひ)」の原意は「発生させ」のようなもの))→文も届けず(手紙も出さず)。
「大海老(おほえび)(Aに)きこえ」(『国基集』:大海老の効果の発生を(Aに)得―大海老を(Aに)贈り(届け))。
「わがたけ立ち並ぶまで養い奉りたるわが子を、なに人か迎へきこえん」(『竹取物語』:これは上記「動詞連用形(動態)+きこえ」の例)。
最後に、通常の、音響刺激を受ける意味での「きこえ(聞こえ)」。「…鶴(たづ)が音(ね)の聞(き)こえむ(岐許延牟)時(とき)は…」(『古事記』歌謡85)