K音の交感とI音の進行感により対象たる動態との交感が進行する。基本は動詞「き(着)」や「き(来)」と同じです。ただ、この場合、対象は動態であり、動態との交感が進行した場合、それはその動態の理性的気づきであり、その動態の記憶化(過去化)です。この語は動詞に添い、文法では「助動詞」と言われるわけですが、動詞「き(来)」については「きき(来き)」とは言われないようです。これは動詞「き(来)」が動態の気づき確認を表現していることによるもの。つまり、「きき(来き)」は表現が重複し、認了が必要なら「きぬ(来ぬ)」や「きつ(来つ)」と言えばよいわけです。この「き」は文法的には過去や回想の助動詞「き」の終止形と言われます。「我が谷は緑なりき」。過去や回想の助動詞と言われる「き」には未然形の「せ」があるとも言われる(「まかずけば(纏かずけば)」(『古事記』歌謡62)という表現から未然形「け」があるとも言われますが、これは「まかずければ」の「れ」が落ちているのでしょう)。「一つ松 人にありせば」(『古事記』歌謡30)や「世の中にたえて桜のなかりせば」(『古今集』)などの「せ」です。この「せば」は「せむは」。「人にあり」や「桜のなかり(桜のなくあり)」という情況動態が進行したら→人だったら、桜がなかったら、ということ。つまりこの「せ」は動詞「し(爲)」の未然形。そもそも、過去の助動詞「き」なるものはそれが活用変化して「し(連体形)」になったり(ましてや「しか(已然形)」になったり)「き(終止形)」になったりしているわけではありません。
ちなみに、この語は文法で一般に「過去回想の助動詞」といわれますが、たしかに気づかれ記憶されれば過去化はするわけですが、たんなる気づき確認の表現、それによる、それが深く記憶されるほど心的衝撃を受けていることの表現、とでもいう「き」もあります→「ほとほと死にき君(きみ)かと思(おも)ひて」(万3772:ほとんど死にそうになった)。
「他辞(ひとごと)を繁(しげ)み言痛(こちた)み相(あ)はずありき心あるごとな思ひ我が背子」(万538:噂する人々の言葉が繁く甚だしくて会わなかった。あなたを思う心に二心(ふたごころ)があるとは思わないで)。
「燃ゆる火の 炎中(ほなか)に立ちて 問ひし君はも」(『古事記』歌謡25:この「問ひし」の「し」は文法で、過去・回想の助動詞「き」の連体形、と言われるそれ。この「し」や、その已然形、といわれる「しか」(「しかば」や「しかど」も)は辞書では一般に(助動詞たる)「き」の項目で扱われています。この「し(助動・過去回想)」に関しては別項)。
「つひにゆく道とはかねてききしかど きのふけふとはおもはざりしを」(『古今集』:この「きき(聞き)しかど」の「しか」は文法で、過去・回想の助動詞「き」の已然形、と言われるそれ。この「しか(助動)」に関しては別項)。