「かえおひ(離え覆ひ)」。「かえ(離え)」は「かれ(離れ)」ですが、これは活用語尾Y音でも表現する(→「かえ(離え)」の項)。意味は、人との関係が空虚(疎遠)になることであり、事象の活性化がなくなり、不活性化し、関係の活性化がなくなり、不活性化することを表現しますが、「かえおひ(離え覆ひ)→かよひ」すなわち、その不活性化している事象を「おほふ(覆ふ)」動態になる、とは、その不活性化している事象、不活性化している関係が覆(おほ)はれ見えなくなる、機能しなくなるような動態になることであり、不活性化している(する)事象、不活性化している(する)関係が活性化したような状態になる。すなわち、「かよひ」は、不活性化している(する。そうなっても不自然ではない)事象を活性化させる、させている、活性化させているその動態が(可能的にでも)不活性な事象を活性化させている特別な動態情況になること、という意味になる(たとえば「かひ(交ひ)」はただ相互交換的に交流するわけですが、「かよひ(通ひ)」は一般的な関係としてその関係の活性化が認められる関係になり(その関係に疎遠性がなくなっていることが認められる関係になり)、それは不活性な関係や可能的に不活性であることも有り得る関係が活性化している特別な関係となっていることが表現される。ただ関係が活性化するのではなく、活性化の特別感が表現される)。たとえば、「学校へ行(い)く」は、学校という目標へ向かって進行する。「学校にかよふ」は、「自己と学校」が不活性化事象となっている事象にあり、それは不活性化事象を活性化させる(自己と学校の関係を活性化事象とする)特別な事象とすることを表現する。すなわち、「学校にかよふ」は、自己と学校を活性化した事象にする、自己と学校の関係を活性化したものとする、ということなのですが、それは(可能的にであっても)不活性な事象を活性化している特別な事象となる。「心がかよふ」は、心が活性化している事象にあり、それは可能的にであっても不活性な事象が活性化している特別な事象にある。「にかよふ(似通ふ)」は似て活性化している。

この「かよふ(通ふ)」という語は、日常的にありきたりに使われている語なのですが、正確な意味把握はあまりなされていないように思われます。

「夢(いめ)のごと おもほゆるかも はしきやし 君が使(つかひ)のまねく かよへば」(万787)。

「風雲(かぜくも)は二つの岸にかよへども…」(万1521:河に隔てられ不活性化している両岸の関係を風や雲はなんの障害もなく自由に活性化させるが…。これは七夕の歌)。

「…おもほしき(自分の思いをわかってもらいたい)言(こと)もかよはず」(万3969:人どうしの言語関係はあたりまえに活性化していそうだが、それが活性化しない)。

「仏の道にさへかよひ給ひける御心のほど」(『源氏物語』:仏の道に活性化することはなかなかない。しかし活性化している)。

「九郎は義経とぞ云ひし、後の京極殿の名にかよひたれば、後には義顕とかへさせられにき」(『愚管抄』:事象が(名が)事象に(名に)活性化している。社会的に不活性化が要請される事象において)。