「かもどくしま」は『古事記』の歌にある語です。全文は「沖つ鳥 かもどくしまに 我がゐ寝し 妹は忘れじ 世のことごとに(おきつとり かもどくしまに わがゐねし いもはわすれじ よのことごとに)」(『古事記』歌謡9)。『古事記』での表記は「加毛度久斯麻(かもどくしま)」。『日本書紀』にほぼ同じ歌(下記※)がありますが、そこでの表記は「軻茂豆勾志磨(かもづくしま)」。「おきつとり(沖つ鳥)」は遙かな憧れにあること、遙かに何かを想うこと、を表現するような、枕詞のような慣用的表現(この表現は『古事記』大国主命の歌にいくつも用いられています→『古事記』歌謡5:「おきつとり」の項)。「かもどくしま」は「かみよとつくしま(神世とつく島)」。「と」は思念的に何かが確認されている助詞。「つく」は思念が生きたそれとして活性化していることを表現する動詞「つき(付き・着き)」の連体形。「かみよとつくしま(神世とつく島)→かもどくしま」は、神の世と思念が活性化する、生きる、世界、という意味になります。つまり、人にとって、それが神の世であり、ほかに神の世はない。『日本書紀』の「かもづくしま」は「かみよとつくしま(神世とつく島)」の「と」が懈怠化した(発音がおろそかになった)表現。

上記の『古事記』の歌は鵜葺草葺不合命(うがやふきあへずのみこと)が生まれた際、母たる(海神の娘とされる)トヨタマビメ(海・自然)が海へ帰っていき、その際、父たる火遠理命(ほをりのみこと:山幸彦(山・神)。天津日高日子穗穗手見命(あまつひこひこほほでみのみこと)とも言う)へ送った歌に対し火遠理命がこれにこたえ歌ったものです(相手に届いたかどうかはわからない)。ここで生まれた鵜葺草葺不合命は神の世と人の世の中間域にあるような、それをつなぐような、そんな存在であり、この『古事記』歌謡9は神の世を去り人の世へ入っていくものが神の世を想い歌った歌。

その鵜葺草葺不合命(うがやふきあへずのみこと)と玉依毘賣(たまよりびめ)との間に神武天皇が生まれるわけですが、この鵜葺草葺不合命(うがやふきあへずのみこと)が、神の世から人の世へと移行する媒介のような存在になっています。日本の神話は神の世界と人の世界が対位的関係にはなく、その世界とその世界の境界域に神の世界でもあり人の世界でもある、逆に言えば、神の世界でもなければ人の世界でもない、媒介的な世界がある。この中間的な媒介域があるので降臨するのは、天子ではなく、天孫になる。そして、その、神の世界から人の世界、「ひと」と呼ばれる生命体の世界、への移行が神と海・自然との間に、海を母体として子が生まれることとして語られる。具体的な叙述としては、天孫たる日子番能邇邇藝命(ひこほのににぎのみこと:正式名称はもう少し長い)が天降(くだ)り、木花之佐久夜毘賣(このはなのさくやびめ)との間に火遠理命(ほをりのみこと:山幸彦(山・神)が生まれ、上記のように火遠理命と豐玉毘賣命(とよたまびめのみこと)との間に鵜葺草葺不合命(うがやふきあへずのみこと)が生まれ、という展開になり、火遠理命による「沖つ鳥……」という歌があります。

この「かもどくしま」という語の「かも」は鳥の鴨(かも)と解され、この語は、鴨がつく島、鴨が寄り集まる島、と、相当に古くから解されているようですが、そういう語ではありません。鴨がつく島にゐねし妹、という表現は何の意味もない。

 

※ 『日本書紀』の歌は「沖つ鳥 かもづくしまに 我がゐ寝し 妹は忘らじ 世のことごとも(おきつとり かもづくしまに わがゐねし いもはわすらじ よのことごとも)」(『日本書紀』歌謡5)。