「も」は(後記二種の)どちらも詠嘆であり、意思動態的M音による詠嘆は想念的であり(その動態は「もふ…(思ふ…)」ということです)、それに関してはすべて同じなのですが、「か」の作用に応じこれに関しては基本的に、典型類型として、二種あります。
・一は、「か」(→「か(助)」の項)に、気付き確認に反省思考と疑問・疑惑が発動し「も」の想念性によりその疑惑感・疑問感が深められる「かも」。
「置目(おきめ:人名)もや…明日よりは御山(みやま)隠(がく)りて見えずかもあらむ」(『古事記』歌謡112:現実としてあるのは見えない(会うことのできない)状態でか?。疑問性の提示によりそれでいいのか、という事態への無念さが表現される)。
「恋ひかも痩せむ 逢ふよしをなみ」(万2976:こんなに痩せてしまうのは恋か?…(そうだ、恋なんだ…)会うすべもなく)。
「漕ぎ行く船は高島の阿渡(あど)の水門(みなと)に泊(は)てにけむかも」(万1718:碇泊したのだろうか(もうそんな頃だ))。
「むばたまの夜渡る月は早も出でぬかも」(万3651:「ぬ」は否定。出ないのか?(出て欲しい)。
意思推量の助動詞「む」の已然形「め」にこの「かも」が続いた「~めかも」という表現は、動詞の已然形というものが、たとえば「そう言ふ」や「そう言ひ」のように、動態の現象としての能力が明瞭なものではなく、たとえば「そうとは言へ…」と言いよどんだ場合、この「言へ」は命令形ではなく已然形であり、それはただ言ふ動態が経過しその言ふ動態の結果効果は不明で確信性のない、そうとは言ふがそうではない思いもふと沸き…のような曖昧な表現になる。意思や推量の助動詞「む(終止形)」の已然形「め」に「かも」がつづいた「~めかも」という表現は、そうしたふと疑惑感のある「~め」に、さらに疑問感のある「か」が加わりつつ詠嘆的「も」が言われ、推量的に、そうなのではないか?(そうではないかもしれないが)、そうあってほしいが…、のような微妙な表現になる。「陸奥(みちのく)の安太多良(あただら)真弓(まゆき)はじき置きて反(せ)らしめきなば弦(つら)はかめかも」(万3437:「せらし(西良思)」は「背(せ)り」の使役他動ということであり、「そらし(反らし)」と同意だろう(これは東国の歌)。「弦(つら)はかめかも」は、((弓に)ずっと力を加えつづけ反らしつづければ)弦(つる)を佩(は)かせる・装着させることができるのではないか?(そうではないかもしれないが)、そうあってほしいが…ということ)。「古(いにしへ)を仰ぎて、今を恋ひざらめかも」(『古今集』「序」:恋いずにあるだろうか(そうではないのか?…いや必ず恋ふるはずだ))。
この「かも」による「ありこせぬかも」という表現がありますが、この「ぬ」は完了であり(否定ではありません)、「ありこせぬ」は永続的に希求が満たされ完成した状態になること。ここではその「か」で夢見るように何かを想い「も」で感嘆する。全体的には、そうだったらいいのに…というような表現。「朝ごとに我が見る宿のなでしこの花にも君はありこせぬかも」(万1616)。
後世の「そうかもしれない」などと言う「かも」は「か」に反省思考と疑問・疑惑が発動するこの系列にある表現です。
・ 他の一は、「か」によってただ確認され記憶化され「も」の想念性によりその思いの深まりが表現される詠嘆の「かも」。つまり、もっぱら詠嘆の「かも」。
「悔しかもかく知らませばあをによし国内(くぬち)ことごと見せましものを」(万797:この「かも」の「か」には反省思考や疑問・疑惑はない。ただ深く感嘆している)。
「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも」(『古今集』)。
ただし、それは典型はそのような二類型へ向かうということであり、「暁(あかとき)の家恋しきに浦廻(うらみ)より楫の音(と)するは海人(あま)をとめかも」(万3641:新羅へ派遣された使人の旅の途上での歌))など、「かも」は推量とそれを自己否定する疑問と、『いや、そうだ』という確認詠嘆が入り混じっているような表現です。