「こはむい」。こはむい→かむい→かみ。語尾の「い」は代名詞のような「い」(→「い」の項参照)。古くは「それ」や「その」のような「い」があった。「い」は直線的な進行感を表現し、意思の直線的進行感が意思の進行先に何かあること、その「何か」を感じさせ、伝えた。その「い」は漠然と何かに向かう意思の発動の表現であり、それはただ何かへ向かう意思であり、その意思内容に限定性は無く、漠然と、無言で言った「それ」のように、何かを示す。示されるのは、人をも含めた、物であることもあれば、事象や情況であることもある。「こはむ」は、動詞「こひ」に意思的・推量的助動詞「む」がついたもの。この動詞「こひ」は通常「乞ひ」と書きますが、この漢字は意味を妥当に表現しないので、ここでは「祈ひ(こひ)」を用います。「祈」は通常「いのる」と読む。動詞「こひ(祈ひ)」は「くをおひ(来を追ひ)」。何か(何事か)が来るという状態で追ふ、ということ。何か(何事か)が来ることを追い求める。それが願いなのです。「くをおひ」は、そうした、「く(来)」を追うこと、何か、何事かがやってくることを願うこと、それが「こひ(祈ひ)」。自分で自由に追ひ、諦(あきら)めることなく追ひが終わることが許されない情況になることは人間にはある。諦(あきら)めて終わることは平凡にある。しかし、「諦(あきら)めることなく追ひが終わること」が許されない情況になることは人間にはある。そして、肉体的その他物的理由、経済的その他社会的理由によって自分にはそれを追ふことができないこともある。また、追う何かが自分ではとても追えない、追いきれない、何かであることもある。そうしたとき、人は他の人に救いや助力を求めることもある。ここから「こふ(乞ふ)」という表現も生まれる。しかし、そうした人の救いや助けさえも期待できない場合もある。人は絶望へ向かう。しかし人は何かに祈(こ)はむとする。「来(く)を追はむ」とする、「こはむ(祈はむ)」とする。何かに、「い」に、「こはむ」とする。そしてそれが現れたとき人は「こはむい」に「祈み(のみ)」、「こはむい」に「願ぐ(ねぐ)」。すなわち神に祈り神に願ふ。「こはむい(祈はむい)」と言った場合、「い」には三つの意味が考えられる。一は、「い」が祈(こ)ふている主体である場合。しかし、祈りの主体と客体が同一人格であるようなそんな事態なら初めから「くをおふ(来を追ふ)」ことは生じていないはずであり、神はうまれていない。一は、「い」が「こはむ」としているその内容である場合。これも、その内容に祈(の)み、そして願(ね)ぐことは、言語のあり方として意味をなさない。一は、「い」が、人にはなしえない、その「追ひ」を終わらせる影響力のある主体である場合…。人の思ひは何かを追ふ。あきらめることなくそれを追はなくてよい自分に、解放された安らかな自分に、してくれる影響力の主体。そうした影響力それ。そうした世界・宇宙・存在のあり方それ。人が祈(こ)ふ何か。願ふ何か。求め、願っているそれ。求め。願ひ。希望――。それが、こはむい→かみ(神)。

 

「其の大后(おほきさき)息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと:神功皇后)は、当時(そのかみ)神(かみ)を帰(よ)せたまひき」(『古事記』)。

「あめつちの かみ(可未)をこひつつ あれまたむ はやきませきみ またばくるしも(天地の神を祈ひつつ吾待たむ早来ませ君待たば苦しも)」(万3682)。

「天神 … 和名加美 日本紀云天神 和名安万豆夜之呂」(『和名類聚鈔』)。「天神」とは和名「加美(かみ)」であり、「日本紀云天神」とは「安万豆夜之呂(あまつやしろ)」だ、という言い方は、まるで「かみ(加美)」とは「夜之呂(やしろ)」だ、と言っているようです。『和名類聚鈔』には「地祗 周易云地神曰祗 巨支反 日本紀云地祗 和名久爾豆加三(くにつかみ) 或 夜之路(やしろ)」という部分もあります。これも『日本紀』に云う「地祗」の和名は「久爾豆加三(くにつかみ)」あるいは「夜之路(やしろ)」ということであり、これも、まるで「かみ(加三)」とは「夜之路(やしろ)」だ、といっているようです。神(かみ)とは、社(やしろ)なのです。社(やしろ)が神なのではありません。神(かみ)とは、社(やしろ)なのです。大自然や宇宙が社(やしろ)だったとしても。神(かみ)とは、社(やしろ)なのです。「かみ」とは社(やしろ)たる動態「い」ということでしょう。宇宙の運転であれ人生であれ、この動態は我々は「現実」や「現在(現(ゲン)に在)(あ)り」と表現しています。