「かまへあひ(構へ会ひ)」。「かまはひ」のような音(オン)を経つつ「かまひ」になった。「かまへ(構へ)」はなにごとかを見、それを思い・考え、その思いにある自分を(抵抗をおしきりつつ)維持すること(→その項・昨日6月11日)。「かまへあひ(構へ会ひ)→かまひ」はその「かまへ (構へ)」の動態で「あふ(会ふ)」ということなのですが、たとえば、「Aにかまへあひ(構へ会ひ) →Aにかまひ」、はAに、かまへて(構へて)、Aに、Aを思い・考え、それを思っている自分を維持しつつ、会う(Aに全的完成感が生じる努力が現れる)。つまり、「Aにかまひ」は、Aに心をとらわれつつ(Aに)対応する、のような意味になります。
この動詞は古くは「~にかまひ」という言い方がなされ、しかも否定でいわれることが多かった→「俺にかまはず先に行ってくれ(俺に、俺に心をとらわれた状態で、会うことをせず、先に行ってくれ。俺を気にしたり俺に配慮したりすることなく先に行ってくれ)」。のちには「~をかまひ」という言い方も一般的になる→「猫をかまって遊ぶ」。それは「かまひ(構ひ)」が「かまへ(構へ)」の他動表現として成熟しているということです。
「かまへ(構へ)」は、理想やあるべき姿・状態のようなものを自分の内心に見、その見ている理想やあるべき姿・状態、意図、を維持することですが、それを維持し何かに「あふ(会ふ)」、そして、何かを「あへる(和へる)」ような、その他動表現化、とは、その「かまへ(構へ)」をして、「かまへて(構へて)」、もの(人)やことに関(かか)はり、これに影響を及ぼすことです。それによりもの(人)やことにその「かまへ(構へ)」による干渉、さらには障(さは)り(障害)や、さらには禁止(障害により禁止される)、が生じます。「小車にかまふ辺りの木を伐りて」(「俳句)」:車に障(さは)る周辺の木を切る)。「大坂ではやる繁太夫ぶし、そなたにも聞かしたけれど(聞かせたいけれど)病人の気に構(カマ)はふ」(「浄瑠璃」:病人への障(さは)りになるだろう)。それらの影響を及ぼすことがないことが「おかまひなし(御構ひ無し:江戸時代にはこれは、処罰無し、という意味にもなる)」。「俺にかまはんでくれ」(干渉しないでくれ)。否定の「かまはぬ」は、放置する、放任する、の意味にもなる。「言ってもかまはないよ」。相手をしてもてなすことも言う。「取り込みまして、ろくにおかまひもせず」。他者に配慮することも言う。「どうぞおかまひなく」。
障り、禁止、障害を与えることが処罰することの意味にも用いられた。「お客がたへの無礼、此の過怠(あやまちや過失、それによる罰)として鎌倉中をかまふ」(「浮世草子)」:鎌倉全域から追放になった)。「仮令(たとへ)此の土地をかまはれて、幇間(たいこもち)をやめようとも…」(「人情本」)。江戸時代には追放その他の処罰を「かまひ」や「おかまひ」ともいった。
「一生擬(あてが)ひ世帯にして毎月六百目づつ晦日(つごもり)に相渡し、此上に奢(おごり)は一銭にてもかまふまじ」(「浮世草子」:これは、奢(おごり:贅沢)はかまはぬ、を強く言っているわけであるが、奢(おごり:贅沢)というかまへで会うことはけしてない。奢はけしてしないしするつもりもない、ということ。奢(贅沢)はかまわない、世間は配慮したり気にしたりしない、奢はやっていい、という意味ではない)。