「かみゆき(醸み行き)」の音変化。「かみ(醸み)」は発酵させることですが、自己を発酵させる。つまり、客観的には自動表現になる。つまり、発酵すること。「ゆき(行き)」はそれが進行すること。つまり、「かみゆき(醸み行き)→かぶき」は、酒が完成するように、発酵していくこと。「あめふれはかとたのいねそしとろなるこころのままにかふきわたりて (雨降れば門田の稲ぞしどろなる心のままにかぶきわたりて)」(『行宗集』・源行宗(みなもとのゆきむね(1064-1144年))。これは、酒の発酵がすすむように、酒が完成していくように、稲の、稲穂たる米の、熟(ジュク)しが、成熟が、心のままに完成していく、ということ。
この語はそのような語として生まれてはいる。しかし、その発酵の進行が人に起こります。「かぶけるは稲のほのじぞ京上臈」(「俳諧」『貝おほひ』(1672年))。
その発酵は人格的変貌ももたらし、その言動や装(よそお)いにも変化が生じ、一種の社会現象ともなり「かぶきもの(かぶき者)」が生まれる。
この「かぶき」には芸能・演劇も大きな影響を与えており、「かふきをとり(かぶき踊り)」(当時は「ややこをどり」とも言っている。「ややこ」は女の子)なるものが『慶長日件録』に現れるのが慶長八(1603)年五月六日。出雲大社の巫女(みこ)と言われる「阿国(おくに)」(この「阿国(おくに)」は、一人の現存する女の名なのかある集団の女たちの総称なのか、よくわからない)の京都での「念仏踊り(※後記)」興行・「かふきをどり」興行もだいたいこの頃かその少し後でしょう(※ この「念仏踊り」を、鎌倉時代の一遍上人のそれのようなものと考えるのは誤りです。この「念仏踊り」をやっている人たちは華美な衣装で首には仏教系の大数珠であろうと十字架のついた水晶のロザリオであろうとかける人たちなのです)。
「此比(このころ)かふき躍(をどり)と云事有、是(これ)は出雲國神子女 名は國、但非好女 仕出(しだし)、京都え上る。縦(これ?)は異風なる男のまねをして、刀脇指衣装以下殊異相、彼男茶屋の女と戯る體有難したり(※後記)。京中の上下賞翫する事不斜(なのめならず)。伏見えも参上し度度躍る。其の後学之(これをまなび)かふきの座いくらも有て諸国へ下る。但江戸右大将秀忠公は終不見給(つひにみたまはず)」(『当代記』慶長八(1603)年三月二十一日:※ 女が男茶屋の女と戯れる體(タイ:態)はあり得ないことだと(当時の記録に)ある、ということか。この「かふきの座」が後の伝統芸能・伝統演劇「歌舞伎(かぶき)」に育っていきます(近松門左衛門が歌舞伎台本を書き始めるのが1600年代最末期(それ以前は義太夫節の台本たる浄瑠璃を書いている))。また、「歌舞伎」という漢字表記が一般化するのは明治以降であり、それ以前は他の字も書かれ、また、「かぶき」は俗称であり、江戸時代、公的には「狂言」「狂言芝居」と言われた)。
社会的な風俗としても酒が、自己陶酔すれば美酒が、醸成するように発酵のすすんだ「かぶきもの(かぶき者)」は増えていき、夢野市郎兵衛(ゆめのいちろべい)、だの、てれつく喜兵衛(きへい)、だの、あれノ小兵衛(こへい)、だの、いろいろな名をなのったりもし、荊組(いばらぐみ)だのなんだのの徒党も組み、1600年代中頃には「かぶきもの(かぶき者)」の一斉取り締まりも起こる。発酵と腐敗の違いは人の役に立つか立たないかだけだろう、と言われればまさにそうであり、やっていることは華美な衣装と派手な言動と女に対する集団強姦だけといった者たちも現れ、死罪になるものも現れる。「おとこだて(男伊達)」とも言われたある者(身分は旗本)は1645年に切腹を命じられ、遺した辞世の句が「わんざくれえ(めんどくせえ) ふんぞるべえか今日ばかり あすは烏(からす)がかつかぢるべえ」。
「侍小者によらずかぶきものを抱へ置き申すまじく候」(『桜井文書』慶長十二(1607)年九月七日)。
この「かぶき」という語は漢字表記で「傾き」と書かれますが、これは、文字右側の「頁」は、頭(あたま)、を意味し、それが「化」になる、化(ば)ける、から「傾」なのでしょう。そうした通俗理解がなされたということです。ただし、文字の成り立ちとしては、「傾」の字は「頃」に人偏(ニンベン)がついている。しかし、この表記の影響により、そしてそこで起こる人格の、正立ではない、斜め化、傾(かたむ)き、の印象、さらには、「かぶき」は「かたぶき(傾き)」の音略も思わせる、ことにより「かぶき」は、傾(かたむ)くこと、という印象の強い語になっています。「だてなる姿をみては傾(かぶき)たる姿などといへり。是(これ)は傾城(けいせい)といふかくし詞(ことば)也」(『舞曲扇林』(1689年頃):原文は「かぶき」を「傾」の一字で書き読み仮名もふられている)。
上記『行宗集』の歌も、一般に、稲が傾(かたむ)くことと解されています。
「Cabuqi,u,uita. …………¶Cabuita fito, l(または), cabuqimono」(『日葡辞書』:詳しくは記しませんが、この辞書の「Cabuqi」の説明も「傾(かたむ)き」に影響されている)。
(参考)
『日葡辞書』においては今は用いられていないアルファベットも用いられ、「ロングエス」と言われる「f」に酷似した文字もあり(「f」の横棒がなかったり、それが向かって右へ出ず左側だけがあったりする)、印刷状態の良くない古い書物ではそれが「f」なのか「ロングエス」なのか分からなかったりします。この「Cabuqi」の説明文においてもそうしたことが起こっているのですが、それはすべて「ロングエス」であろうということで、それを無理やり入れるとその説明文は、
「Peſando alguna coſa ver bien para donde ſe inclina la balança」
というものです(ここで初めて知ったのですが、「ロングエス」はここアメブロでは変な字体になります。実際は台座のように下に横棒があり、もっとスマート)。これにパソコンの翻訳ソフトは反応するのだろうかと、無理やりポルトガル語として入れてみたところ、
「スケールが傾いているところからビエンを見るために何かを求めています」
という日本語訳が出ました。「ビエン」は、良きこと、のような意味です。
次に、「ロングエス(ſ)」は現代なら「s」だろう、ということで、これをすべて「s」に変え、同じようにやってみたところ、そのカタロニア語訳として、
「体重計が傾いているところで何かを計量すると見栄えがします」
という日本語訳が出てきました。「Pesando」は現代のポルトガル語でも「計量」です。
これらでだいたい言っていることはわかりますね。それは、(美や正義をはかる計量において)(水平な、ではなく)傾いた天秤で栄えをよくする(計量結果をすばらしいものにする)計量(はかり)、ということです。たしかに「かぶき」にはそういう面はあります。その「はかり」によって華美な異風にもなり大見えをきった言動にもなる。しかし、『日葡辞書』のこの説明は正確ではありません。天秤は常に傾いているとはかぎらないのです。「かぶきもの」はすべてが腐れとはかぎらない。本物の美酒たる「かぶきもの」もいるのです。