「かはみまね(『彼は…』見間根)」。『彼は…(あれは…)』と、あるいは、『彼は…(あれは…)』を、見る、その間(ま)、の根(ね:根拠、基(もと))。彼(か)は…は、遥か彼方を見るような思いにあることを表現します。それを見ている間(ま:時間域・空間域)とは、人が生きている間(ま)であり、人生です。その根(ね)とはその主体であり、物的なその肉体です。その肉体はもう『彼(か)は…』を想い見ることはやめてしまった。しかしその根からは芽生えがあり、葉が茂り、「は(葉)」は時間を、すなわち歴史を、意味する(→「はは(母)」の項)。この「かばね」という言葉は人の死体の尊称です。

「海ゆかば水(み)づくかばね 山ゆかば草むすかばね」(万4094)。

「『…昔、別れを悲しびて、屍を包みてあまたの年首に掛けてはべりける人も、仏の御方便にてなむ、かの屍の袋を捨てて、つひに聖の道にも入りはべりにける……』」(『源氏物語』:これは遺骨を少し包んで小袋に入れて首にかけるということでしょう。その屍の袋を捨てるのは「仏の方便」だそうです。これは、物語の中で、故人の家を壊し仏堂を建てる案を聞いた阿闍梨が深く感心し(「『いと尊きこと』と聞こえ知らす」という状態になり)言った言葉) 。

「尸 屍 カハネ」「骼 カハネ」(『類聚名義抄』:同書ではその他「骨」偏に「死」と書いて「カハネ」と読んでいるのですが、これは日本での造字でしょうか。『新撰字鏡』にもこの字はあり「須祢汁(すねしる)」と書かれている。「すねしる」は骨髄液でしょう)。

 

※ 5月9日の「~かは」にある『古今集』の歌に関し説明を補足しましたのでここに書いておきます。

◎「~かは」

考え・疑問表明の「か」が「は」によって提示されている。「は」による疑問感の提示。それは、理解不能であること、そこに理解の及ばぬ意味や要因の働いていること、を言うことによる感銘表現にもなり(1)、抗議や、そうではない、という反語にもなります(2)。

(1)「はちす葉の濁りにしまぬ心もて何かは露を玉とあざむく」(『古今集』:泥水にも汚れない清らかさで露を玉と欺くようなことが(なぜそんな美しいことが)起こる…(この事態はいったいなんなんだ、と疑問が提示されている):「なに(何)」は、ないのに、という意味。つまり、「なにかは」は、ないのにか、では…、ということ。(はちす葉の濁りにしまぬ心をもってなら)「露を玉とあざむく」ということはないのにか、では…(なぜそんな美しい嘘(うそ)が人には現れる))。

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